「白」から「浄」や「潔」の概念を見出すこと

歯科医師という職業柄もあって、仕事での衛生にはかなり気を使いましたが、率直に言って、暮らしも綺麗好きだったのか?といわれると、返事に困ります。

日本で暮らすようになってからは、前より、ずっと綺麗好きになりました。

特に、トイレで座って用(小)を足すようになったのは、自分でも不思議です。日本はトイレと浴室が別々になっているので、韓国みたいにシャワーホースで直接便器を洗う、いわゆる「洗車スタイル」が容易ではないのも理由ではあります。でも、それだけではありません。確実に、汚れを気にするようになりました。

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ゴミがないからゴミが目立つ

韓国にいた時、街を歩いているといつの間にか感じていた、数々の不愉快さ。

それらは、日本に来てからほとんど無くなりました。

不愉快さの存在そのものがゼロになったわけではなく、それらの不愉快を「社会一般の(全般的な)問題」ではなく、「個人の問題」として見るようになったからです。

一つの簡単な例えとして、道に捨ててあるゴミのことがあります。

韓国にいたときには、日本に観光に来ると「街がすごく綺麗。ゴミが無い」と思っていました。比べる対象が韓国と日本だったわけですから。

でも、暮らすようになってから、見方も変わりました。

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街を歩くこと

昨日から、次の本の原稿を書き始めました。発売時期も内容の方向性もまだテスト段階ではありますが、はじめて「日本で暮らすようになってから」を書いた本であるため、新しいスタートを切るつもりでいます。

明らかにネットのブログで始まった著述家暮らしではありますが、「ブログはブログ、本は本」。「ネットはネット、リアルはリアル」。「アニメはアニメ、映画は映画」。私はいつもそのスタンスです。原稿を構成するネタも、ネットとリアルの両方から得ることになります。

根拠や資料、ある種の総合的代弁(マスコミの記事など)を探すには言うまでもなくネットが向いていますが、結局、人々が「何か」の影響をやり取りするメインの場は、リアル、現実です。その「何か」を求めて、結局は街を歩きながらその「何か」からネタを感じ取ることになります。今回の本のような場合は、特にそうです。

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コトワリ

この前、「日本は、理性の国」というエントリーを書いてから、理(ことわり)について少し考えてみました。

韓国側にも「ドリ(道理)」「ソプリ(摂理)」など、日本語の「コトワリ」に対応できそうな言葉はありますが、

どれも漢字でできており、「コトワリ」に直接対応できる純粋な韓国語(朝鮮半島に昔からあった言葉)を見つけることはできませんでした。

「理由」を意味するカダク(까닭)という言葉がそれっぽいとも思いましたが、ニュアンスが「根拠」のほうに近く、コトワリとは違うようです。

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日本は、理性の国

久しぶりの「じゃぱんらいふ」エントリーです。

韓国人が持っている日本人のイメージに、「情(ジョン)が無い」というのがあります。

韓国で情が無いというのは、「冷たい」とほぼ同じ意味です。すなわち、「日本人は情が無い」は、「日本人は親切に見えるけど、決して心を開かない。本当は凄く冷たい人たちだ。韓国人は情が深い(情に厚い)。だから心を開き、温かい」・・そんな意味になります。

言うまでもなく、これは、韓国人の日本観によくある、「そうでなければならない」の一つにすぎません。本当の日本がどうなのかではなく、そういうことにしないといけない、という日本観です。「ソウルに行ってきた人と、行ってない人が喧嘩をすると、行ってない人のほうが勝つ」・・韓国で勝ち負けを決めるのは、「本当はどうなのか」ではありません。大勢の人たちが、いまも本気でそう信じています。いえ信じなければならないことになっています。「日本人は情が無い」、「日本人は冷たい」、と。

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「日本人は、人が見てないところで誠意を尽くす。だから路地に美学がある」

韓国で10月に発売された「集中と霊魂」という本の内容をちょこっと紹介します。

大学教授とはいえ、哲学者が書いた本であるため、「そういえばそうかもしれないしそうじゃない気もする」内容が多いため、本の全般的な内容に関しては賛も否もしません。ただ、その中に日本に関する内容があり、部分的に共感を示すことができたので、その部分だけ再構成してみます。

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