内集団、外集団

シンシアリーがブログを書くようになって8年か9年になり、韓国社会の問題を独自に分析して「持論」としてブログや拙著で展開してきた内容もそれなりの分量になってきました。

某新聞に「実名を出せ」と言われたり、異物扱いを受けている本ブログですが、少なくとも韓国社会を分析した内容について、他でもない韓国側の新聞記事と共通する部分が少なくありません。ただ、最近の記事ではありません。私がブログはおろか、まだネットが自由に出来る環境を手に入れる前の、80年代、90年代の新聞記事から、似たような指摘を見つけることが出来ます。

 

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今日は、1993年に京郷新聞にシリーズ連載された「韓国人の意識構造と処方」から、1993年1月11日付「キリキリ(=自分たちだけ)社会の病理」という記事を部分引用してみます。

読者の方々が「あ、言葉選びは違えど、これ、シンシアリーのブログで同じ内容を読んだ」と思われたなら、ブロガーとしての私にはとても幸せなことです。

<・・(同じ学校出身、同じ地域出身など「縁故」に拘る人たちの暮らし方を紹介した後)中小企業をやっている金氏は、賦課された税金の額が大きすぎで悩み、高校の先輩を訪れて助けを求めた。先輩は知り合いの前職国税庁高位官吏に頼んで、金さんの税金を大幅に減らしてくれた。

ある専門家は、「韓国社会の1次集団(親族、同じ故郷・学校出身などで出来た縁故による集団)の機能は、紐帯(絆)ではなく、もっとも安く、早く、正確に信頼できる情報と権力の出処を見つける機能に転落してしまった」と診断する。1次集団に属しない人たちの疎外感が大きくなるなど、縁故主義の問題点が深刻になりつつあるのだ。

内集団(または1次集団)への忠誠は、外集団(1次集団以外のもの)を「倒すべき敵」として規定し、集団同士の葛藤を感情的で極端的な対立への悪化させる要因になる。自分と直接的な関係の無い一般市民は、熾烈な競争相手であり、征服すべき対象にすぎないのだ。だから少しでも利害が衝突すると、大声を出し、相手を潰すために嘘や投書などあらゆる手段が何の迷いもなく動員される。

ここに1次元社会市民たちの二重的な倫理規範が顕になる。内集団に適用する倫理規範と、それ以外の倫理規範が違うのだ。

大勢の人たちが集団内の非道徳的、非倫理的、または違法的な行動に対しては寛容性を見せる。しかし外集団の人たちの間違いは極端的に非難し、許そうとしない偏屈さと排他性を見せる・・>

 

どうでしょうか。本ブログや拙著などで書いてきた内容に似ている気がします。もちろん、内集団外集団という言葉は本ブログでは使ってませんし(初めて見る表現です)、記事は本ブログのように曇った言葉選びはしていませんが、書きたがっている内容は、この記事も本ブログと同じだと見ていいではないでしょうか。

例えば、引用した最後の部分は「情はウリに向かう。どんなことをしても許すべきだとする。恨(ハン)はナムに向かう。どんなことをしても許してはならないとする」とする本ブログの主張とほぼ完全に一致します。

しかし、何年か前に「韓国人診断」という別の新聞のシリーズ記事をいくつか引用しながら同じことを書いた記憶がありますが、本記事から24年後の今、韓国社会で何かが変わったのかというと、むしろ悪化しました。

反日思想の歪みを持ち出さなくても、韓国国内問題・・例えば朴槿恵大統領の弾劾とその後の展開を見ても、「内集団と外集団で規範が違う」現象は遥かに悪化していることがわかります。

しかも、最近の記事からは、このようなちゃんとした指摘を見つけることは難しくなりました。指摘した方が、排斥されてしまったのでしょうか。

韓国社会の問題は、問題そのものではなく、その問題がいつになっても直らないところにあります。その一つの実例でありましょう。

 

 

 

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