恨(ハン)はなぜ永続的なのか

韓国人の恨(ハン)の特徴には、「まるで過去のある時点に刻まれているようで、いつになっても消えたりしない」、すなわち永続性があります。

ハンプリ(恨を晴らす)などの言葉もありますが、一時的な気晴らしにはなるものの、韓国人の恨には「晴らす」というものがありません。

なぜでしょうか?この恨の永続性に関して、「恨を現実に出そうとせず、神秘なものにしたがるからだ」という指摘がありましたので、今日はそれを紹介します。

 

 

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1984年5月4日京郷新聞に載っている、ある詩人の寄稿文です。

・民族という概念そのものが生成的で集合的なもので、変化し続けている。本当に恨が民族の情緒だとするなら、恨も永続的なものではなく、現実の中で変化し続けるはずだ

・恨の根本は、現実に負けては背を向ける敗北主義的なものである

・私たちは、その恨という巨大なコンプレックスを、(現実の中で)客観化して克服しようとせず、内面的なもの、神秘的なものにしようとする。それを外に引きずり出して克服しようとする力が弱いからだ

 

書き方は迂回的ですが、結局、「現実見ろ」という意味ではないでしょうか。

私は、「恨は、自分の正当なる権利を、不当な手段で誰かに奪われたとする考えが基本である。殆どの場合は、気に入らない現実を誰かのせいにするためのものにすぎず、自分の責任を回避するための手段、または言い訳でしかない」といういつもの持論のもと、恨の永続性に関してこう考えています。

恨は無くならないのではなく、無くなったら困るから続けているだけです。恨とやらを手放すと、自分が責任を背負い、(部分的だろうと全面的だろうと)自分のせいだと認めないといけないからです。被害者としての権利も主張できなくなります。

同じ趣旨の文章を、いままでブログや本に何度も書いてきました。

寄稿文では「神秘的なものにしたがる」としていますが、結局は同じ趣旨でしょう。「美化したがる」、いや「(被害者ビジネスのための)権利としたがる」にしてみると、反日思想にもぴったり当てはまる気がします。前に紹介した「憎むことを権利だと思っている人が多い」という分析とも繋がっていることでしょう。

現実を克服するのではなく、背を向けるためのものだから、その心地よさから、手放したくない。だから永続的になる・・・神秘的なもの、いわば宗教や信仰心みたいになり、いずれそれを「正義」と信じてしまう。

そういう流れにまとめることができるでしょう。それって、見方にもよりますが、「永遠に疲れる生き方」にも見えます。

 

 

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