コトワリ

この前、「日本は、理性の国」というエントリーを書いてから、理(ことわり)について少し考えてみました。

韓国側にも「ドリ(道理)」「ソプリ(摂理)」など、日本語の「コトワリ」に対応できそうな言葉はありますが、

どれも漢字でできており、「コトワリ」に直接対応できる純粋な韓国語(朝鮮半島に昔からあった言葉)を見つけることはできませんでした。

「理由」を意味するカダク(까닭)という言葉がそれっぽいとも思いましたが、ニュアンスが「根拠」のほうに近く、コトワリとは違うようです。

 

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さて、この前のエントリーでは「車線」を取り上げましたが、旧ブログの時に書いた「停止線」のほうがもっと喩えとして合ってる気がします。

日本では、停止線をちゃんと守ります。それを超えてはならないから、守ることを選びます。

韓国では、停止線より前に出る(停止線を超える)のが普通です。もちろん、前に出すぎると他の車とぶつかってしまうから、「ある程度」ではありますが、それでも停止線をちゃんと守る車はほとんどありません。超えてはならないから、どこまで超えても問題にならないかを試すわけです。スペースがあれば、とにかく前へ出ます。出ないと、後ろの車から容赦なくクラクション攻撃が来ます。

日本語のコトワリは、「理」にもあてられていますが、「断る」も、またコトワるになります。

本ブログでは今まで、韓国人の言う「情(ジョン)」というものは、仲間同士で必要以上に許し合うこと、すなわち社会の規則より自分たちの規則を大事にすることを強要するための「縛り」にすぎないと主張してきました。

言い換えれば、情が通じ合ってる仲、すなわち「ウリ」同士では、「断る」ことがあってはならない、という意味でもあります。

それすなわち、世の中にどのような「理(コトワリ)」があろうと、それを超越した仲になる(社会の規則より自分たちの情が大事)結果になってしまいます。

日本語でいう「理」と「断」がどちらも「ことわる」なのは、場合によっては断ることもまた世の理であるという意味合いがあるのでしょうか。それを「日本人は情が無い」と言ってしまうのが、韓国人の情の概念でありましょう。

 

正解はわからないから気が楽なのか、正解がわからないから不安なのか、いつものこと、うまくいえませんが、

日本で言う「理(前のエントリーでは『理性』としたあの概念)」が、韓国で言う「情」の反対側に存在するものである、と。それだけはある程度わかった気がします。

恨(許してはならない)と和(尊しを示す)、

情(大きな規則より優先される個人的な関係)と理(もっと大きな規則を気にかける考え方)、

本当に同じ価値観の上では成り立たないものであろうと、いまさら強く感じるシンシアリーであります。

 

同じく、もう少し考えて、書く私にも読む方にも楽しくありえる「文」にできれば、と思います。

 

 

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