俗物根性

日本にも「俗物」「俗物根性」という言葉が普通に使われているのでしょうか。最近はあまり聞きませんが、韓国では人を叱る時に「この俗物め」と言ったりしました。

ファン・サンミン著「韓国人の心理コード」という本を見ると、韓国人のよくある心理の一つとして、「俗物根性」が指摘されています。

本にて著者は、スイスの小説家アレン・ド・ボットン(Alain de Botton)氏の言葉を引用し、こう書いています。

「俗物根性とは、ある人を評価するにおいて、その人の関心や特性ではなく、彼の財産とか、社会的地位とか、そんなものだけで評価を下すことだ」、「それは、私たちが絶えず自分と他人を比べるからだ」

 

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それはそうかもしれません。

自分と他人を比べるためには、どうしても共通的な基準が必要になります。でも、人と人を比べるにおいて、そのような共通基準など、滅多にありません。人は皆それぞれ違いますから。

だから、持っている車や家の価値とか、着ている服の値段とか、大学(点数)や何かの専門資格証とか、さらには「背の高さ」にいたるまで、とにかく『数値化』できる何かで、自分と他人の価値を比べるわけです。こういうものを、韓国では「スペック」と言います。

 

この前、韓国人のウッチュル心理を紹介しましたが、ウッチュル・・すなわち偉そうにすることが「情緒」とまで言われ、偉そうにしないと行きていけなくなった社会。それは、スペックで人を評価する人が多すぎで、彼らの基準に合わせるしかなく、結局は偉そうな態度を取るしかなくなるという見方もできるでしょう。そしてその人のせいでまた誰かが偉そうにするしかなくなり・・いやな悪循環です。

そうやって「基準」そのものが俗物っぽくなってしまうから、韓国人が「外国人を出身国で評価する」「本も読まずにノーベル文学賞を欲しがる」「他人と自分を比べすぎる」「数値一つで一喜一憂する」、それら全てが、結局は俗物根性だと言う人もいます。

こうして書いていると、韓国人を現す言葉として、俗物根性はとても効率の良い言葉のようです。

しかし、「俗物」という呼び方には、別の使い道もあります。

社会の中に、人を評価するための基準が「無くなる」ことは絶対ありません。競争社会を生きているかぎり、やはり競争や結果、場合によっては順位という言葉から完全に自由になることはできないでしょう。

そんな社会の競争で負けた人が、勝った方を「俗物どもめ」と決めつけることが、また韓国人には無茶苦茶多いです。負けてから、自分は俗なものでないから負けただけだと、自分は高尚で純潔だから勝つことができなかったと主張するわけです。

70~80年代には、そこそこいました。特にスポーツなど体を動かす試合で負けて、「ウリジップ(うちの家)はこんなものに向いてなくてさ」と言い訳する人。何のことかというと、「うちは両班家系だから、体を動かすものは不向きなんだよ」という意味です。

なんというか、いろいろ俗物ですね。

 

 

 

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