人への接し方、神への接し方

ツイッター経由でいらした方々、コメント欄や「いいね(曇るね)」ボタンが無いなど、スマホやタブレットなどモバイル機器での表示に何か不具合があった場合、ここをクリックしてください

韓国では、誰か(聖職者など)に祈ってもらうときも、自分で祈るときも、とりあえず「私はこんなに苦しいです」と大げさに泣き叫ぶことが重要とされます。

そうやって「強い霊」を味方にして、「弱い霊(問題の根本とされる存在)」を追い出すことが、韓国人の「霊」や「神」に対する観点の基本の中の基本です。

神様に捧げる祈りも、歌や踊りも、「ちょっと私の話を聞いてください」「見てください私がこんなに苦しんでいます」と、大げさに騒ぐものばかりです。これは、民俗宗教を偶像礼拝として排斥している基督教(韓国プロテスタント)の礼拝でも同じです。

 

(ここから「続きを読む」の後になります)

韓国の教会では「痛声祈祷(痛声の祈り)」というのがあります。痛声という言葉からもわかるように、こんなに苦しい(痛い)私の声を聞いてくださいという意味です。信者たちが一ヶ所に集まって、一つのテーマで大きな声で祈りを捧げます。大勢の人が集まるのも、声を大きくするためです。

 

誰が何を言っているのか全然わからなくなります。泣き叫ぶ人が続出します。経験談ですが、ソウルの某教会で、モールス信号みたいにワケのわからない音を発する人も、泣き叫び過ぎで気を失う人も、リアルで見たことがあります。そうすると、祈りが神によく通じるといわれています。

韓国人は、神様にお願いしますと言いつつ、実は神を困らせようとしているのではないか、と私は思っています。『泣く子が餅をもう一つもらえる(泣き叫んで親を懲らしめる子が、もっと構ってもらえる)』という韓国の諺のようです。どことなく、韓国社会の「人への接し方」と似ている気もします。

 

良い悪いではなく、個人的なことですが、私は痛声の祈りが「嫌い」でした。

ストレス発散にはいいかもしれないけど、私は「痛い痛いと叫んだところで、痛いものを呼び寄せるだけじゃないのかな」と思うと、なんというか、痛声の祈りが、神ではなく悪魔を召喚しているように見えたからです。それに、聖書の内容とも合致しないものでした。

私が通っていた教会の青年部(同じ教会の青年コミュニティー)の子が、韓国の教会を見学に来たヨーロッパの学生に、痛声の祈りの動画を見せたことがあります。相手は、「聖書にこんなの書いてないと思う」とドン引きしました。後でそのヨーロッパの子から聞いた話ですが、その子の国(どこかは忘れました)では痛声の祈りを「Korean prayer(韓国式の祈り)」と言い、あまり良い評判は耳にしないとのことです。

 

なぜ急にこんな話を書くのかというと、いま書いている原稿で・・伏見稲荷大社でご祈祷を受けた時の話のくだりで、ふっと思い出したからです。

日本での経験は、(地理的に近い韓国よりも)むしろ欧米の念経祈祷(経典と儀式の厳粛さに合わせ、静かに祈りを捧げること)に近かったので。

教義も宗教も歴史も違うけど、たどり着いた「祈る人の態度」だけは、地理的に近い日本と韓国は違い、遠く離れた日本と欧米が似ている。不思議で、面白いことです。

私は、静かなほうが好きです。

 

 

 

 著書関連のお知らせ ♨

※書籍のリンクはAMAZONページとなります(アフィではありません)※

・新書「朝鮮半島統一後に日本に起こること 韓国人による朝鮮半島論」が発売中(9月2日発売、電子書籍版あり)です。

韓国の民族主義、親北主義、民衆史観、そして反日思想の関係について考察し、「朝鮮半島統一前の北朝鮮が日本にミサイルを撃つ可能性より、統一後の南側(韓国)政府が日本にミサイルを撃つ可能性が高い」という、とても残酷な結論を書いた内容となります。

・12冊目、「韓国人による罪韓論」が発売中です。

・11冊目にして「日韓比較論」第二弾、「人を楽にしてくれる国・日本~韓国人による日韓比較論~」が発売中です。

・他にも韓国の反日思想に対する考察をまとめたシリーズがございます。それぞれ、重点を置いた部分が違います。今までのシンシアリーの拙著については、書籍紹介ページをご覧ください。

・シンシアリーはツイッターをやっています。他のSNSはいまのところやっていません。ほとんどが更新報告ですが、たまに旅行先の写真をツイートする時もあります。よかったらチェックしてみてください。https://twitter.com/sincereleeblog