議論エントリーその7

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“議論エントリーその7” への1,046件の返信

  1. 「朝銀破綻の謎」を長い間、分析してきましたが、
    やればやるほど、わからなくなる。
    ネットには、嫌韓サイトは多いが、
    参考になるサイトはほとんどない。
    戦後日本の日韓、日朝、の対立が、
    公的資金1兆3453億円「朝銀破綻」を産んだのだが、
    総連破綻申請すら未だに出来ず、全く回収できてない。
    そこで、一旦これまでの解説は第1章ということで下記に纏め、
    https://ncode.syosetu.com/n7996gg/
    そこらネットの朝鮮解説より、ワンランク深いところで、
    「朝銀破綻の謎」第2章を始めることにしました。
    自己満足解説かもしれませんが、
    今回は戦後の日韓、日朝対立の原因究明も含めて、
    結論まで、行きつきたいと思います。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    1945年8月10日、午前2時過ぎ、御前会議において議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。

    日本がポツダム宣言受諾を実質的に決定した瞬間である。

    この頃、朝鮮半島において、日本人及び朝鮮総督府の最大関心事は、日本が敗戦した後の、朝鮮半島の治安であった。

    朝鮮総督府は、日本の敗戦後、朝鮮民族の反日暴動を避けるため、統治権を朝鮮人指導者へ譲るという方針を固めていたように思える。

    京城で、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作は、朝鮮独立運動家呂運亨に、行政権委譲の申し出をした。

    平壌では平安南道の古川兼秀知事が、曺晩植に行政権の委譲を申し出た。

    しかし、何故か今日、この時期の朝鮮総督府や、古川兼秀平安南道知事の行動が、正確に伝わっていない。

    そこで、京城、平壌における、終戦直後の朝鮮総督府、平安南道の動きを、整理してみたいと思う。

    主な登場人物は、

    ①朝鮮総督府総監、阿部信行、
    ②朝鮮総督府政務総監、遠藤柳作、
    ③朝鮮総督府警務局長、西広忠雄、
    ④朝鮮軍管区司令官、上月良夫、
    ⑤古川兼秀平安南道知事
    ⑥呂運亨、
    ⑦安在鴻、
    ⑧宋鎮禹、
    ⑨曺晩植
    ⑩第24軍団指揮官ジョン・リード・ホッジ中将、

    以上の10人である。

    1945年8月10日、西広忠雄警務局長は短波放送を通じて、日本政府がポツダム宣言を受託することを知った。

    西広忠雄警務局長は、治安維持の観点から、有力な朝鮮民族指導者を立てれないかと考えていた。

    1945年8月14日午後11時、西広忠雄警務局長は同盟通信京城支局にて、日本がポツダム宣言を無条件で受託する事を知り、遠藤柳作政務総監官邸を訪た。

    1945年8月15日午前6時、呂運亨を政務総監官邸へ呼び出した。

    1945年8月15日午前8時、呂運亨、官邸到着。

    日本側の記録によると、遠藤柳作政務総監は呂運亨に、
    「連合軍上陸までの治安維持は総督府が当たるので、側面から協力を要請したい」と話した。

    呂運亨は「ご期待に沿うよう協力したい」と答えたとある。

    しかし、ウィキペディアによると、
    『朝鮮総督府政務総監遠藤柳作が呂と接触し、解放後の治安維持のため行政権の委譲を持ちかけたため、政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件に受諾した』とある。

    どうも、ここが、ハッキリしない部分である。

    朝鮮総督府が呂運亨へ「側面からの協力要請」をしたのと、
    朝鮮総督府が呂運亨に「行政権の委譲」をしたのとでは、大きな違いがある。

    朝鮮総督府は、日本人の安全を守るため、呂運亨に権限を譲ったのでしょうか?

    色々調べてみましたが、資料証言がイマイチ曖昧で、どれが正解なのか、事実は全くわかりません。

    朝鮮総督府政務総監遠藤柳作が12年後に証言して、事実らしきものはあるにはあるのですが、これもどうも私の目から見たら、遠藤自身に都合よすぎる内容となっていて眉唾物です。

    結局、真相は藪の中、ということなので、当時の状況で推測するしかないと思い、整理していこうと思います。

    まず、呂運亨についてだが、彼は当時、朝鮮の主要な独立指導者が海外で活動していたため、朝鮮半島における数少ない大物朝鮮独立運動指導者の一人でした。

    この呂運亨が、終戦間近に朝鮮総督府からの「側面からの協力要請」を承諾したことになっていますが、まずこれが疑問その1です。

    当時、日本の敗戦は誰の目にも明らかだったのに、呂運亨は何故、日本に協力する道を選んだのだろうか。

    呂運亨が日本の工作員とするならば、朝鮮総督府からの行政権譲渡は、すんなり受け入れられるが、呂運亨が本当の民族主義者で朝鮮独立運動の指導者だったなら、呂運亨は朝鮮総督府の要請を受けなかったという事になる。

    呂運亨にとって日本の敗戦が確実なこの時期に、朝鮮総督府に協力する事は、全くメリットがない。

    朝鮮総督府に協力すれば、日本の傀儡だと自ら認めるようなものだからだ。

    そうなると呂運亨が朝鮮総督府の協力要請を承諾したのは何故だろうか。

    1つの推測として、朝鮮総督府と呂運亨は繋がっていたと考えられる。

    行政権の確実な委譲が前々から約束されていたのならば納得できる。

    資料では出てこないが、呂運亨は日本が敗戦した場合の朝鮮統治を前もって約束されていたのではないだろうか。

    呂運亨が今でも「親日派の傀儡」と呼ばれてることの原因がここにある。

    呂運亨と遠藤柳作が会合を持ったのが1945年8月15日朝8時である。

    玉音放送が1945年8月15日正午だから、わずか4時間前だった。

    朝鮮総督府にとって、治安対策ができるギリギリの時で、朝鮮総督府は、朝鮮治安維持のために呂運亨に引き受けてもらう形をとった。

    もし呂運亨が協力を断っていたら、正午の玉音放送を聞いた後、朝鮮民族は、暴徒と化して、間違いなく多くの日本人を襲っていただろう。

    こう考えると、呂運亨の「治安維持請け負い」は一見男気溢れる行動のように見えるが、実は違うという根拠になる。

    ソビエト軍は、北緯38度で南進するのを止めてはいたため、京城ではソビエト兵による暴虐は避けることができた

    8/15日正午、玉音放送の後、朝鮮総督府は行政権を朝鮮人に委ねる計画で、水面下で用意していたから、呂運亨はすんなり朝鮮総督府から権力委譲を受けた。

    そして朝鮮総督府の協力があったから、戦後僅か2週間で「建国準備委員会」145支部を立ち上げれた、という事になる。

    しかし、ご存じのように、呂運亨は、そのまますんなり戦後の指導者には、なれなかった。

    呂運亨は何故すんなり指導者になれなかったのかを考えてみたいと思う。

    《続く》

    1. 何故、呂運亨はすんなり傀儡政権の指導者になれなかったのか。

      まず考えられるのは、資金不足です。
      新国家建設のためには、莫大な資金が必要です。
      仮説ですが、私は最初、呂運亨はバックに日窒コンツェルンがついていたと考えています、それが途中から日窒コンツェルンが手を引いたのではないでしょうか。

      ご存じのように日窒コンツェルンと朝鮮総督府は双子のような存在です。
      呂運亨が朝鮮総督府の傀儡政権だとしたら、当然バックに日窒コンツェルンがつくことになる。

      8/15呂運亨は朝鮮総督府から治安維持を要請され、メリットもないのに請け負った。
      呂運亨は人道的な人物だと連合国に印象づけ、その後に作る朝鮮人新国家は呂運亨が指導者でもいいと、既成事実を作るためです。
      そしてその計画は前々から、朝鮮総督府と一緒に計画されていた。

      これこそが、日本が敗戦後に計画してた朝鮮半島における傀儡国家計画であった。黒幕は朝鮮総督府、日窒コンツェルン、朝銀、朝鮮軍、だったと思われる。

      呂運亨は朝鮮民族指導者として他の独立運動家より一歩抜きん出ていた、それはバックでこのような親日派が活動していたからでしょう。

      終戦時、重慶の臨時政府の指導者の面々は、誰も朝鮮に帰ってきていなかった。

      李承晩もアメリカに足止めされたままであった。

      この時点で、呂運亨は、たとえ朝鮮総督府に協力した傀儡だと思われようが、朝鮮独立のための有力指導者になれたわけです。

      しかし、結局、呂運亨は失敗してしまった。

      建国準備委員会副委員長の安在鴻と対立し、結局、内部分裂を起こしてしまう。

      呂運亨は9/6朝朝鮮人民共和国を建国。

      このときの閣僚名簿は、主席李承晩、副主席呂運亨、となっている。

      主席に右派李承晩を据えたにも関わらず、安在鴻、宋鎮禹、といった中道右派の指導者は朝鮮人民共和国を支持しなかった。

      宋鎮禹は、9/16韓国民主党を結成し朝鮮人民共和国に対抗した。

      呂運亨は前もって朝鮮総督府と十分な話し合いを持っていたのに、安在鴻、宋鎮禹が欠けたということは、計画通りにはいかなかった、ということだ。

      呂運亨は終戦時に朝鮮総督府と繋がっていた唯一の民族指導者だったからこそ、8/15日に朝鮮の治安維持を引き受けたし、建国準備委員会を立ち上げて、145の地域に支部を作り上げることもできた。
      しかし、日本の傀儡という批判は大きく、すんなりとはかわせなかった。

      建国準備委員会は朝鮮人民共和国へと大きく育ったが、僅か9/6~10/10日までの35日間しかもたなかった。

      朝鮮人民共和国は日本の傀儡国家ではあったが、もし呂運亨と安在鴻が仲たがいせず、宋鎮禹が協力していたら、北朝鮮のように後々認められる国家になっていたかも知れなかった。

      しかし、12年後、元朝鮮総督府政務総監遠藤柳作は、朝鮮人民共和国樹立の、きっかけとなった、朝鮮総督府から呂運亨への行政権の委譲は、あくまで治安維持の側面からの「協力要請」だったと述べている。

      私は遠藤柳作のこの証言は嘘だと思っているが、戦後12年たっても遠藤柳作元朝鮮総督府政務総監が、事実を隠す理由はなんなのだろうか。

      ここで、1つの仮説が成り立つ。

      朝鮮総督府、朝銀、日窒コンツェルン、朝鮮軍、が中心となって、朝鮮半島傀儡国家建設の秘密計画があったからなのではないのか。

      終戦時、呂運亨に朝鮮の治安要請を請け負う合理的理由は何もなかった、しかし呂運亨は引き受けた。

      玉音放送が流れる4時間前まで会見すらもたなかったのに、簡単に引き受けたのは予め計画があったからではないのか。
      もう話は出来上がっていたのだろう。

      8/17日に共産主義者、反日主義者に扇動された朝鮮人暴動が起こった、朝鮮神宮焼き討ちである。

      呂運亨が「青年治安維持隊」を組織していなかったら、安在鴻がラジオ放送をしていなかったら、反日暴動に歯止めがかからなかった可能性は十分にある。

      朝鮮総督府から呂運亨への権力委譲は、綿密に前々から計画されていたからこそ、有効に機能したと言えるのではないだろうか。

      朝鮮軍管区司令官上月良夫は朝鮮人暴徒に対して発砲を許さなかった。

      まだ武装解除していなかった朝鮮軍の、この統率された行動は呂運亨への権力委譲が朝鮮軍上層部にまで徹底されていたからだろう。

      呂運亨が治安維持を行い、安在鴻がラジオ放送で朝鮮民族に自制を求めて、
      警察官への暴行はなんと朝鮮全土で10数件で収まった。
      日本人警官の死者は僅か2名だった。
      実に見事な政権交代だった。

      しかし米軍はこの権力委譲を最後まで認めなかった。
      何故米軍はこの政権交代を認めなかったのか。
      米軍の責任者は第24軍ホッジ中将であった。

      ソビエト軍は北部朝鮮の管理を、すぐに朝鮮人組織に任せた。
      それは建国準備委員会が人民委員会で組織されており、共産色が強かったからだけではないだろう。
      平安南道知事古川兼秀が行政能力の欠如をソビエト軍に表明したからだろう。

      しかし、米軍は南朝鮮の管理を、絶対に呂運亨の建国準備委員会には任せようとはしなかった。
      つまり、朝鮮総督府は行政能力の欠如を表明しなかった。
      ここに日窒コンツェルンの誤算があった。

      南朝鮮でも北朝鮮でも、人民委員会が国民に自制心を求めたがゆえ、大きな社会的混乱は起こらなかった。
      ただその組織、人民委員会が、左に片寄りすぎたのは問題だった。
      左傾化し過ぎた組織だったゆえ、米軍はソビエトとは違う印象を人民委員会に持った。
      米軍は、一旦、朝鮮人に渡った行政権を、朝鮮総督府に再摂取させるという無茶を強行し、再び朝鮮人に委譲しようとしなかった。

      そこで、一つ疑問点がある、朝鮮総督府は行政能力の欠如を理由に、行政権の再摂取を断ることも出来たはずである。
      げんに北部朝鮮では平安南道知事は断っている、しかし朝鮮総督府は断らなかった。

      朝鮮総督府と日窒コンツェルンは朝鮮人独立国家建設に呂運亨を担ぐことで一致していたはずなのに、何故、呂運亨を見限ってしまったのだろうか。

      《続く》

      1. 1945年8月15日、呂運亨は朝鮮総督府政務総監遠藤柳作より行政権の委譲を受けた。
        しかし、朝鮮総督府は8/18に呂運亨から行政権を再接収した。
        呂運亨は実質3日間しか朝鮮統治はできなかった。
        何故このような醜態になってしまったのか考えてみよう。
        だいたい2つの理由が考えられる。

        第1に米第24軍ホッジ中将の命令があった。
        第2に呂運亨らが朝鮮総督府との約束をたがえたから。

        まず、問題視されたのが、8/16安在鴻が行ったラジオ放送である。

        この放送で安在鴻は遠藤流作との約束の範囲を越え、朝鮮民族に独立を扇動してしまったという人がいる。

        「国民の皆さんは格別に留意され、日本の居留民の感情を刺激しないようにしてください、40年間の総督府の統治は既に過去のものとなりました。両国民の政治形態がどう変わろうとも、両国民は同じアジア民族として結ばれている国際条件の下で自主互譲の精神で各自の使命を遂行すべき運命におかれている事を正しく認識しなければなりません。日本にいる500万の同胞が日本で全く同じような受難の生活をしていることを思い致せば、朝鮮にいる百数十万の日本人住民の生命と財産を安全に守るということが必要だと言うのは聡明な国民の皆さんが十分に理解してくださると疑いません」

        実に人道的な、いい演説だと思います。
        しっかり在留邦人の生命財産を守るという約束を果たしてるうえ、朝鮮国民に広く日本統治が終わったことを知らせている。
        この演説に建国準備委員会の朝鮮総督府に対する約束違反は見当たらない。

        結局、安在鴻は左派勢力が強くなった建国準備委員会に見切りをつけ副委員長を辞したが、このラジオ放送が朝鮮総督府との約束違反だとは思えない。

        もう1つの理由は、米軍ホッジ中将から命令されたから、となっている。

        確かに事実だが、北部朝鮮ではソビエト軍は自ら行政権を行使しようとはせず、人民委員会に行政を委譲している。

        何故ソビエトが直接統治をすぐに諦めたのかというと、平安南道知事古川兼秀が行政能力の欠如を理由にソビエト軍に行政権の再摂取を拒否したからである。

        つまり平壌で行政権は、平安南道知事→曺晩植→ソビエト軍→曺晩植、という流れで委譲されていった。

        ソビエトは朝鮮は朝鮮人に間接統治させた方が上手くいくと判断したのだ。

        しかし、米軍はそう考えなかった。
        朝鮮を直接統治するため呂運亨から行政権を取り上げた。
        それも米軍が取り上げるのではなく、日本にその役目をやらせた。
        つまり京城で行政権は、朝鮮総督府→呂運亨→朝鮮総督府→米軍、という流れで委譲された。

        呂運亨擁立による日本の傀儡新国家建国計画は狂ってしまった。

        私は、呂運亨擁立失敗の原因は朝鮮総督府が行政権の再摂取を拒否しなかった事にあると思う。

        つまり総督府の方針が最初と変わったのが原因である。

        それでは何故、朝鮮総督府の方針が変わったのか。
        それは、8/16米ソにおいて北緯38度線による分割統治が成立してしまったからである。

        この事で南部朝鮮は米軍の力が強くなり、中道左派の呂運亨は、動きづらくなってしまった。

        逆に北部朝鮮では、ソビエト軍占領地域は戦前から重工業地帯であったため、共産党への対策が十分練られていた。

        北部朝鮮は日窒コンツェルンの企業城下町が多く、労働組合対策のための地下組織が整っていた、曺晩植はその組織を自由に使えたゆえ、活動がしやすかった。

        戦時中、日窒コンツェルンは地域住民の間に草の根のような密告組織を整備していた。地下工作員は迷路のように張り巡らされた連絡網を使って、わずかな共産主義者の活動も見逃さなかった。

        つまり共産主義者に対するスパイ網が発達していたので、逆にソビエトに協力する動きもできたわけである。

        日窒コンツェルンにソビエト軍の動きは完全に読めていた。

        ソビエトにとっても、日窒コンツェルンの組織網は、北部朝鮮の間接統治を行うのに都合がよかった。

        元山、興南、といった重工業都市では、日窒コンツェルンは住民の隅々にまで連絡網を構築していた。

        対労働組合の戦中教育は徹底されており、その事は逆にソビエト軍への理解も容易にした。

        日窒コンツェルンの描いた共産主義国家ソビエトに対しての裏工作は上手くいったわけだ。

        一方、南部朝鮮は農業中心で北部ほど反共対策が進んでいなかった。

        人民委員会は北部ほど住民に支持されず、米軍は朝鮮民族を理解していなかった。

        マッカーサー布告第1号(9/8)では、朝鮮人を解放人民ではなく、敵国人民として対処する、としている。

        全羅道を本拠地とする湖南財閥が再大財閥であったが、呂運亨ではなく金性洙を支持していた。

        金性洙は宋鎮禹と反呂運亨で同調し、多くの親日派が、宋鎮禹・金性洙が結成した韓国民主党を支持してしまった。

        何はともあれ、朝鮮総督府は、治安能力の欠如を理由に、行政権の放棄はしなかった。道義的に考えるなら、最初の約束通り、呂運亨に行政権を譲ったままにしておくべきであった。

        建国準備委員会は終戦直後の日本人の生命財産を守り、安在鴻は素晴らしいラジオ演説をしたのだから、建国準備委員会に行政を全て任せた方がスマートだったと私は思う。

        そもそも、8/15、呂運亨に行政権を委譲したとき、遠藤柳作は呂運亨に全てを委譲する気だったはずである。

        それでは、何故、遠藤柳作の気が変わったのだろうか。

        米軍ホッジ中将の命令が絶対だったからか?

        いや違う、私は朝鮮総督府内で、何か問題が発生したからだと思う。

        つまり第3の理由だ。

        あまり知られていないことだが、大日本帝国陸軍は、ちょうど北緯38度線付近で、関東軍と大本営とに、管轄を分けていたらしい。それが米ソ南北分割統治と深く関わってくる。

        朝鮮総督府の中にもキナ臭い南北対立があったということである。

        《続く》

        1. さて、呂運亨の考察から、少しずれて朝鮮半島における帝国陸軍の南北の温度差について少し考えて見よう。
          朝鮮北部は日窒コンツェルンの本拠地である。

          咸鏡南道咸興郡では合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安、油脂、石炭低温乾留、アルカリ、カーバイド、火薬、金属精錬などが生産され、興南地区では、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が操業していた、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた。

          日窒コンツェルン創設者野口遵は自分の本籍を咸興へ移したほどの朝鮮贔屓きで、政治家で陸軍大将でもあった宇垣一成は、朝鮮総督時代に朝鮮銀行の融資枠1/3を使って、日窒コンツェルンの事業を助けた。

          日窒コンツェルン総帥、野口遵が1944年1月15日に死去したとき、宇垣一成の落胆ぶりたるや相当なものであった。

          納棺に立ち合い、死者の手を握り、無言のまま大粒の涙をポロポロと流したという。

          日窒コンツェルン、その総資産は三菱、日本製鉄に匹敵し、
          死の直前、野口遵は私財3000万円(現代で800億円)を朝鮮総督府と野口財団に寄付した。

          その一部は現代まで続いている朝鮮奨学会となっている。
          新宿西口の地上9階地下3階の奨学会ビルは野口遵の遺産である。
          彼の朝鮮への思い入れの強さが伝わる。

          日窒コンツェルンのバックには関東軍と朝鮮軍がおり、その巨大財力の源は朝銀であった。

          関東軍の戦争遂行のための予算は、朝鮮銀行の「圓」にあった。

          当時日本は、異なる3つの「圓」を発行していた。
          本土では日本銀行券、植民地の台湾銀行券と朝鮮銀行券、
          それぞれが同じ価値で交換出来た。
          万一植民地の経済が悪化した場合、本土から切り離す為に、
          敢えて別々に「圓」を発行していた。
          自由に「圓」が発行出来たことが、朝鮮銀行の独断で関東軍への資金提供を可能にしていた。
          関東軍が大本営の支持に従わず暴走できたのも、朝銀があったからである。

          宇垣一成は大日本帝国陸軍に宇垣閥を作ったほどの大物で、クーデター未遂事件も何度か起こしている。
          宇垣一成の朝鮮総督時代(1931~1936)、
          陸軍のクーデター事件は頻発し、

          3月事件(1931,3,20)、
          10月事件(1931,10)、
          血盟団事件(1932,2~3)、
          5・15事件(1932)、
          226事件(1936)へと続く。

          この中で3月事件と10月事件を企てたのが「桜会」である。

          現代、陸上自衛隊OBが作る親睦団体で、偕行社というものがある。
          大日本帝国陸軍の元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊と航空自衛隊の元幹部の親睦組織である。
          歴史は古く帝国陸軍の創建まもない1877年(明治10年)陸軍将校の集会所・将校倶楽部や一種の迎賓館として東京府九段に集会所が設立されたことに始まり、以降各地の師団司令部所在地に偕行社が設立された。

          大日本帝国時代、偕行社は一種の企業としても一大組織であり、将校准士官および見習士官を対象とする軍服を筆頭とする各種軍装品、軍帽・略帽・正帽、手套・シャツ・パンツ・袴下・襟布・袖布・カフリンクス、軍靴、脚絆・革脚絆、軍刀・指揮刀・刀帯、拳銃・拳銃嚢・双眼鏡から、陸軍記念日や陸軍特別大演習といった行事記念品などの製作・販売、および陸軍将校や関係者用の喫茶店・旅館、学校の経営なども広く手がけていた。

          つまり巨大な利権の塊であった。
          当然の陸軍関係の秘密会合の舞台となっている。

          「桜会」はそんな偕行社内で1930年秘密結社として生まれた。
          「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く在籍しており、石原莞爾の盟友参謀本部ロシア班長、橋本欣五郎がリーダーであった。
          3月事件で宇垣一成を首班とする国家を作ろうとしたクーデター未遂事件を主導した。

          3月事件は、大川周明が立案し、桜会が中心となり計画した、宇垣一成陸相を首班指名させるクーデター未遂事件である。

          10月事件は3月事件を更に大きくしたクーデター未遂事件で、
          宇垣一成の代わりに荒木貞夫が首班指名された。

          この計画の驚くべき箇所は、関東軍が日本から分離独立する旨の電報を政府に打ち、それをきっかけにクーデターに突入するというもので、出口王仁三郎の大本教信者40万人も支援していたという所であった。

          関東軍の独立などということが、現実にクーデターの材料として語られるほど、当時、関東軍と大本営の仲は悪かった。

          10月事件の失敗後、桜会は解散したが「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的を選定し、配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令した「血盟団事件」が起こった。

          血盟団事件は民間のテロだが、首謀者井上日召を頭山満が匿ったように、黒龍会とも深い繋がりがある右翼団体であった。

          血盟団事件では三井の総帥団琢磨が殺され、三井出身の日銀頭取池田成彬も標的にされた。

          そして5・15事件では犬養毅首相、226事件では朝銀の通貨発行権の停止を目論んだ高橋是清蔵が殺され、血盟団の残党は三菱銀行に手榴弾を投げ込んだ。

          戦後、第1章で述べたように「三無事件」というクーデター未遂事件が1961年に起きている。

          この事件で5・15事件で犬養毅を撃った三上卓が逮捕された。
          戦後、源田実など右翼国粋主義者の世話をした川南豊作が逮捕され、
          池口恵観も逮捕された。

          第1章にも書いたが、要するに右翼活動の源流は、この混沌とした時代にあるのだ。

          池口恵観は朝鮮総連ビル競売の時の第1落札者、鹿児島最福寺の池口恵観である。

          やっと朝銀破綻問題に繋がってきた。

          《続く》

          1. 陸軍急進派を操っていた黒幕は満蒙に独立国を夢見る新興財閥であった。
            日窒コンツェルンはその黒幕1番手と見て間違いないだろう。

            終戦時、北緯38度線で関東軍と大本営は管轄を分けていた。

            京城のある朝鮮南部は、三菱、三井といった旧財閥系資本が中心で、軍部は大本営、資金は横浜正金銀行といった日本の表の顔が支配層であった。

            しかし、平壌のある朝鮮北部は、経済は日窒コンツェルンと朝銀が、軍は関東軍が支配層だった。

            一連のクーデター立案者で理論的指導者である大川周明と北一輝は満鉄、黒龍会、という団体と繋がりがあり、

            どちらも大アジア主義を唱え、テロの標的は三菱三井であった。

            森格という三井物産天津支店長から政友会幹事長まで上り詰めた政治家がいる。

            軍部と繋がりのある中国侵出強硬派の政治家で、軍縮を指導した浜口雄幸内閣を攻撃した政治家だ、そして5・15事件の黒幕だとも疑われている。

            犬養毅も同じように浜口内閣を攻撃していた軍部贔屓の政治家なのに、森格と犬養毅は相容れなかった。
            そして犬養毅と宇垣一成は盟友であった。

            つまりこの時代の敵味方は、主義主張では分けられない、旧財閥系か新興財閥系かで分けた方がしっくりいく。
            其々に資金源が存在し、其々の黒幕が都合のいい絵を描く。
            宇垣一成の黒幕は日窒コンツェルンであり、森格の黒幕は三井系だったということだ。

            この頃のクーデターやテロでは、いつも三井三菱系が狙われた理由はここにある、日窒コンツェルンや日産コンツェルンは狙われなかった理由もここにある。

            関東軍が裏で操っていたクーデターのほとんどは、パトロンが日窒コンツェルンである事は、もはや疑いの余地はない。

            北一輝の思想は「天皇の国民」ではなく「国民の天皇」であるが、野口遵の考える新国家に、天皇を新しく作る考えもあったのではないだろうか、まさか自分がなろうとは考えてなかったと思いたいが。

            いずれにせよ日窒コンツェルンは常に陸軍急進派のパトロンであったし、桜会や黒龍会といった大陸好きな右翼団体のパトロンでもあったようだ。

            日窒コンツェルンの地元咸興地域では、秘密結社が作られ、地下組織は整備され、組合活動を監視し、共産主義者をマークし、ソビエト軍の動向を探っていた。

            帝国陸軍は明石元二郎の時代からロシア赤軍内に多くのスパイを放っており、それが日露戦争後も続いていたのは、明石が寺内正毅韓国統監(1910~1916)の下で憲兵司令官と警務総長を兼務してたことからも間違いはない。

            帝国陸軍のスパイ網は陸軍中野学校で洗練され、大戦末期には日本敗戦後も想定した上での活動がなされていた事は、ルバング島の小野田寛郎少尉の活動を見ても明らかだ、いわゆる残置諜者の事である。

            日本敗戦後、いかにして日窒コンツェルンの資産を守るか、という大事業を遂行するためにソビエト国内に放たれた残置諜者は数多くいると思って間違いない。

            咸興地域の電力・化学コンビナートは世界最大規模で、交通機関、住宅、学校に至るまで全て日窒コンツェルンの資金で整備されていた。

            北部朝鮮の住民は日窒のために日々情報を集め、自治組合は女子供、当然朝鮮人も活動していた。

            曺晩植が組織したとされる平安道治安維持会、後の平安建国準備委員会は全て日窒コンツェルンの造り上げた遺産である。

            行政権をソビエト軍が人民委員会へ委譲したのは、その受け皿が十分整っていたからであり、ソビエト軍が作るより数段スムーズに機能した。

            平安南道知事と曺晩植は日本敗戦以前から、敗戦後のシュミレーションを練っており、朝鮮半島が北緯38度で南北分割統治されることが決まった8/16日以降は、北部朝鮮に曺晩植首班とした傀儡国家作りに邁進した。

            北部とは逆に、南部では米軍の力が強くなり過ぎ日窒コンツェルンの傀儡国家計画は頓挫した。

            米軍に嫌われた呂運亨は李承晩や上海の臨時政府の面々を加え、日本の傀儡臭を薄めようとしたが、それも連合軍に見透かされていた。

            建国準備委員会は分裂し、安在鴻は副委員長を辞め、反日色の強い韓国独立党に合流し、宋鎮禹は金性洙と組み湖南財閥の韓民党を結成した。

            ホッジ中将が仁川に米軍が上陸したのが1945年9月8日である。
            先見隊は8月17日に京城に到着し、朝鮮総督阿部信行、政務総監遠藤柳作は、朝鮮治安維持の命令を受けた。
            8/18朝鮮総督府は先見隊員と共に主要施設の再接収を行い、
            朝鮮総督府の太極旗は降ろされ、再び日章旗が掲げられた。

            9/9正式に朝鮮総督府が降伏するまでの間、行政権は朝鮮総督府が維持した。

            ポツダム宣言で朝鮮半島は日本の主権外とされていたのに、植民地時代同様、朝鮮総督府に統治された南部朝鮮国民は当然反発した。

            朝鮮軍管区司令官上月良夫は、朝鮮総督府への抵抗者には断固とした武力措置をとると断言した。

            朝鮮神宮焼き討ちの時、全く動こうとしなかった上月良夫朝鮮軍は、米軍の後ろ楯があるとなれば豹変し、虎の威を着る狐となった。

            米軍はソビエトと比べて、朝鮮人に対する理解が低かった、朝鮮人にすぐ自治権を渡したソビエトと比べ、米軍は全く朝鮮人を信用してなく、日本人と同じと見なしていた。

            1945年9月2日に、建国準備委員会を代表して呂運亨、趙漢用、白象圭、の3人が仁川沖に停泊しているホッジ中将の旗艦に面接に向かった。

            朝鮮の行政権を朝鮮総督府から譲渡され、南朝鮮を現実に統治している既成事実を伝えるためだ。

            しかし、ホッジ中将は面接は拒否し、呂運亨らを「日本の走狗の共産主義者」と呼んだ。
            遠藤柳作が呂運亨のことを「日本の走狗の共産主義者」とホッジ中将に吹き込んだという噂もある、いずれにせよ朝鮮総督府は呂運亨を見限ったということだ。

            9/6呂運亨は反日主義者で親米民族派の李承晩を主席に添えて、朝鮮人民共和国樹立を宣言したが米軍の支持は得られず韓国人民共和国は35日間で崩壊した。

            日窒コンツェルンのような大財閥は、自分達の息のかかった指導者に、国を運営させようとする。

            湖南財閥は金性洙の韓民党に資金援助し、日窒コンツェルンは北緯38度線で南北分割される前は呂運亨に資金援助し、南北分割後は平壌の曺晩植に資金援助した、日窒コンツェルンの資産の9割は北部朝鮮にあったからだ。

            さて、ここで気になるのが曺晩植という人物だが、どのような人物なのだろう。

            中道民族派の親日派で、背景には日窒コンツェルンがいるはずである。

            それでは、曺晩植について少し調べてみよう。

            《続く》

          2. 曺晩植のことを調べていくと、どうしても腑に落ちない点が幾つか出てくる。

            その第1点は、8/15玉音放送のすぐ後、どうして曺晩植は、平安道治安維持会という、行政組織を立ち上げることができたのか?

            前々から準備してたのか?
            日本敗戦のときに、すぐ立ち上げれるように?
            たぶん、そうでしょう、そうとしか考えられない。
            でもそれって、朝鮮総督府が協力してますよね。

            8/15曺晩植は平安南道古川兼秀知事から、行政権の委譲の申し出を受けた、そしたら、その日のうちに平安道治安維持会を立ち上げた。
            いくらなんでも早すぎる(笑)
            呂運亨が建国準備委員会を立ち上げたのと全く同じパターンだ(笑)

            詳しい資料が見つからないので真実はわからないが、どう考えても古川兼秀平安南道知事は、日本が負けたとき平安南道の治安をどうすれば守れるか、幾つか計画を立てていたとしか思えない。

            曺晩植への行政権の委譲は、その計画の一つだったのだろう。
            古川兼秀知事は綿密に朝鮮総督府の遠藤柳作と連絡を取り合っていたに違いない、そしてお互いに玉音放送が流れる事がわかったら、その数時間前に行政権を朝鮮人の指導者に委譲しようと決めていたのだろう。
            このスピーディーな動きは恐らく、事前協議があったのだろう。
            つまり呂運亨も曺晩植も日本の傀儡だ。
            朝鮮独立運動の英雄にそんな汚名を着せたくはないが、
            現実はそんなに甘くない。

            反日組織を作るには金もかかるし、維持するのはもっと大変だ、呂運亨は1年も前から建国同盟を維持している、資金がどこから出ていたのか?
            日窒コンツェルン以外に考えられない。

            それゆえ、朝鮮側には詳しい資料が残っていないのだろう。
            また日本側も、朝鮮総督府が日窒コンツェルンと組んで、大日本帝国の傀儡国家を朝鮮半島に残そうとしたなんて資料は残せない。
            曺晩植も「建国同盟」を使ったのだろうか?
            もし、そうなら玉音放送直前に、二人が同時に行政権の委譲を、京城と平壌で受けた事も納得できる。
            「建国同盟」は日窒コンツェルンが用意した地下組織で、いわば呂と曺は雇われ店長だということだ。

            そうでなければ憲兵の目も誤魔化せない、1944年8月10日、呂運亨は朝鮮全土に反日組織「建国同盟」を作ったのだが、
            このような大それたことができるのは、朝鮮総督府のお目こぼしがないと、絶対できないだろう。

            太平洋戦争中、呂運亨も曺晩植もずっと朝鮮国内にいた。
            つまり行動が朝鮮総督府に筒抜けだった。
            他の大物独立運動家は皆、海外で活動してた。
            中国にいた金九、ハワイにいた李承晩、
            つまり、まともな独立運動家は朝鮮国内には住めず、海外に逃亡するしかなかった時代だ。

            さて、終戦当時、ソビエト軍の北朝鮮への侵攻は1945年8月9日、咸鏡北道雄基羅津空襲から始まった。

            8/11雄基上陸、
            8/12羅津上陸、
            8/12清津艦砲射撃、
            8/13清津上陸、
            8/15玉音放送、
            8/16清津占領、
            8/16咸鏡北道吉州・羅南爆撃、
            8/19羅南停戦合意、
            8/20停戦

            8/24午前、ソビエトは咸南の行政権を岸勇一咸鏡南道知事から摂取し、
            8/24午後、朝鮮民族咸南執行委員会が、ソビエトから治安行政権の委譲を受けた。

            咸南というのは咸鏡南道のことで、蓋馬高原などの高い山々が聳え立っており、水産資源も豊富で、日本統治時代、鴨緑江の支流を堰き止めて建設された長津湖、赴戦湖というダム湖と水力発電所があった。

            日本海沿いには化学工業や機械工業が中心の工業地帯が形成されている。
            咸南、興南、元山、では市人民委員会、16群では郡人民委員会、
            129面では面人民委員会、面から道に至るまで、
            人民委員会体系が8/31までに整備された。

            人民委員会というのは地方行政機関の事である。
            この朝鮮半島東北部は日窒コンツェルンのお膝元で、
            この行政権委譲方式は日窒コンツェルンが考え出したものだろう。

            前々から計画されていた行政権の朝鮮人への委譲方法、一つ間違えれば南朝鮮での米軍ように、ソビエトも朝鮮人への行政権の委譲を拒否しただろう。

            ゆえに、ソビエト軍への根回しは日窒コンツェルンも大変だったであろう。
            そのかいあってソビエト軍はこの行政権委譲方法が大変気に入り、
            他の占領地域でも、この「咸興方式」と呼ばれる行政権の委譲方法が行われた。

            ソビエト軍は朝鮮総督府とは交渉できなかったゆえ、各道行政機関と個別に行政権の委譲をやった。

            さて曺晩植であるが、ちょっとウィキペディアを見てみると、あまりに良いことばかりが書いてある、「朝鮮のガンジー」などの記述もある。
            正直、どこまで本当かわからないが、ここに添付しておこう。

            曺晩植(1883年2月1日-1950年10月18日)

            日本へ留学し明治大学法学部を卒業。

            1913年、帰国、定州の五山学校で教職に就く、

            1915年、学校長に昇進。

            1919年、学校長の職を辞して三・一独立運動に参加して逮捕、平壌監獄に1年間服役。

            1921年、平壌YMCA総務と山亭峴教会の長老となる、

            以降平壌における長老派教会の重鎮とされる。

            1922年、朝鮮物産奨励会を結成、会長に就任。

            1923年、金性洙や宋鎮禹と朝鮮民立大学期成会を結成した。

            1927年、新幹会の結成に参加し、平壌支部の会長に就任した。

            1930年、関西体育会長、

            1932年、朝鮮日報社長に就任、

            キリスト教民族主義の立場から神社参拝と志願兵制度への協調を拒否した。

            1943年、曺晩植を懐柔しようとしていた当時の朝鮮軍司令官である板垣征四郎との面談を拒否し、志願兵制度に対する反対運動を行い逮捕されたが、すぐに釈放された。

            1945年8月15日、古川兼秀と面談、平壌においてプロテスタント民族主義者を中心とした平安道治安維持会を結成し委員長に就任。

            1945年8月17日、平南建国準備委員会に移行した。

            1945年8月29日、平南人民政治委員会、委員長となった。

            ソビエト軍特別宣伝部長・グリゴリー・メクレルは、
            曺晩植はソ連軍政に協力姿勢を見せているが反共思想・反共姿勢、を内に隠しているため信用できないとソ連に報告している。

            1945年11月3日、朝鮮民主党を結成して党委員長になった。

            1945年11月19日、北朝鮮五道行政局が創設され、委員長となる。

            1945年12月17日、米英ソ外相によるモスクワ三国外相会議終わる。

            朝鮮の独立が為されるまでアメリカ・ソ連・イギリスに中国を加えた4か国による最長5年間の信託統治を要することが決められた。
            朝鮮半島は賛否を巡って大紛糾。
            五道行政局も信託統治案を巡って分裂。

            1946年1月2日、4日、5日の3回にかけて、ソビエトは曺晩植に新政府の大統領のポストを用意する事を提示し信託統治を支持することを要請。

            曺晩植は、信託統治反対を表明。

            1946年1月5日、曺晩植、軟禁。

            1950年10月18日に処刑。

            《続く》

          3. 朝銀破綻の謎を追ってるうちに、連合軍軍政期の朝鮮半島に足を踏み入れてしまい、訳がわからなくなってきました。
            取りあえず、呂運亨と曺晩植については、ある程度理解できましたが、しかし、恐らくあと何人調べあげても、資料の信憑性に疑問を感じるので、真実は見えてこないでしょう。

            ただ言えるのは、1997年に起きた朝銀破綻は、対戦末期の朝鮮総督府時代から続く大日本帝国陸軍の怨念が、朝鮮総連を通じて現代に生き返ったかのようなものではないかと思っている。
            戦後右翼が帝国陸軍のどの部分の末裔なのかを調べ上げれば、朝鮮総連本部ビルの競売を頑なに阻止しようとした存在が何者なのか、確実に戦後右翼の中に存在していることを白日の元に晒す事ができるでしょう、その理由もわかるような気がします。
            私は帝国陸軍の魂が、今でも朝鮮半島北部に生き続けていると思っている。
            日本人として一緒に戦ったのに、戦後は一転して被害者ビジネスにいそしんできた朝鮮人。
            しかし、それでしか生きれなかった朝鮮人が、大日本帝国の魂を守るための隠れ蓑として利用されてる技法の巧みさを、現代もっと多くの日本人は気づくべきであろう。
            現代日本の失われたDNAが朝鮮半島北部に生き続けているのだとしたら、帝国陸軍恐るべし執念、というより他に言葉がない。

            荒唐無稽な事として私の推論を述べていますが、呂運亨、宋鎮禹、曺晩植は朝鮮総督府に養育された大日本帝国の傀儡政府を作るための駒であり、そして恐らく、金日成もそうであろうと私は思う。
            それでは、引き続き一人一人分析して、少しずつ謎を解いて真実に近づいていこうと思う。

            曺晩植の次は、宋鎮禹について触れておきたいと思う。

            1990年5月8日生まれの宋鎮禹は、呂運亨より4つ年下、曺晩植より7つ年下、である。

            1915年、明治大学卒業なので、1913年明治大学卒の曺晩植とは同時期に明治大学で学んでいるはずである。

            遠藤柳作が終戦時、呂運亨に治安維持を要請をしたのは周知の事実だが、実は宋鎮禹にも同じような依頼をしていたと言われている。

            遠藤柳作が行政権の委譲を、宋鎮禹に申し出たのは、8/11だという話である。

            宋鎮禹はこう述べている。

            遠藤柳作は呂運亨へ治安維持の協力要請をする前、1945年8月11日、
            京畿道知事を通じて、宋鎮禹に「行政委員会」を構成してくれと要請してきたと。
            宋鎮禹は、その要請を断ったと言っている。
            理由は連合国から日本の傀儡に見られかねないことと、金九の臨時政府の許可がないからということであった。
            しかし遠藤柳作は12年後のインタビューでこう言っている。
            「呂運亨への依頼前に、宋鎮禹へ同じことを依頼した事実はない」と。
            この証言は重要である。
            もし遠藤柳作の証言が本当なら、宋鎮禹は嘘つきだからである。
            大変重要な話なのだが、真実はこれまた、藪の中である。
            韓国側の資料では、遠藤柳作が呂運亨へ行政権委譲する前に、宋鎮禹へ「行政委員会」を構成してほしいと要望したことになっている。
            この事は、ほぼ事実として語られているが、遠藤柳作は、このような事実はないと言っている。
            どちらが真実なのかわからない、ゆえに状況から推理してみよう。

            1945年8月15日午前8時、呂運亨が朝鮮総督官邸に向かう前に、呂運亨は宋鎮禹に会っている。

            呂運亨と宋鎮禹は当時、行動を共にしていた、全て相談しながらやってたという事だ。

            ゆえに朝鮮総督府が呂運亨のみに、行政権の委譲の話を持っていくのは不可能な話だと思う。

            朝鮮総督府では、当時、呂運亨、宋鎮禹、安在鴻、の3人を有力な朝鮮人指導者だと考えていたらしい。

            ただ、宋鎮禹は、建国準備委員会に入っていない、上記3人が朝鮮総督府の駒だとしたら、宋鎮禹だけが、建国準備委員会に入らないのはおかしい。

            しかし宋鎮禹は呂運亨の建国準備委員会には入らず、金性洙の湖南財閥に付いた。

            湖南財閥とは京城紡績を中心とした東亜日報グループの財閥で、南朝鮮では一番金を持っていた、金性洙はそこの御曹司である、ただこの時代、京城紡績は満州にまで工場を広げ、日本と一緒に事業を広げたコテコテの親日企業だ。

            宋鎮禹が呂運亨と離れたのは、建国準備委員会が左傾化していったからだと言われているが、私にはどうもそれだけが理由とは思えない。

            実際、建国準備委員会が作り上げた朝鮮人民共和国の閣僚名簿を見ると、

            総裁は右派の李承晩になっているし金性洙の名前もある。
            内務部長も右派の金九で、
            文教部長は金性洙、
            財務部長が曺晩植、である。

            右派もかなりいる、つまり呂運亨はかなり重慶臨時政府に気を使っているということになる、それならなぜ宋鎮禹は妥協できなかったのか。

            たぶん、理由はマネーだろう。

            宋鎮禹と日窒コンツェルンとの間にどのような関係が構築されていたのかは不明だが、日窒コンツェルンが朝鮮南部に新国家を作る計画から手を引いてしまった。
            建国準備委員会は大きなパトロンを失った。
            宋鎮禹は金性洙と仲が良かったので日窒コンツェルンの代わりに湖南財閥に韓民党を作らせたというわけだ、つまり朝鮮総督府は呂運亨と宋鎮禹を使って二股かけていたと考えられる。

            《続く》

          4. あのう、まさかと思うのですが、もしかして「朝鮮銀行」と「朝銀信用組合」を混同していませんか?

      2. >まだ武装解除していなかった朝鮮軍の、この統率された行動は呂運亨への権力委譲が朝鮮軍上層部にまで徹底されていたからだろう。

        軍の統率とはそんないい加減な話で維持できるものではありません。

      1. ホッジ中将の先見隊が8/18に朝鮮総督府と一緒になって太極旗を降ろした事を言ってるのでしょうか?

        そこのところの事情は、第2章、呂運亨の初めの方に詳しく書いたので、読み直して欲しいのですが、

        簡単にここでの私の推察を説明すると、
        米軍の意向は朝鮮行政は、別に呂運亨の建国準備委員会でも、朝鮮総督府でも、どちらでも構わないというスタンスであったと思います。

        北部朝鮮では平安南道知事古川兼秀がソビエト軍に対して、行政能力の欠如を表明したら、その日のうちにソビエト軍は、行政権を人民委員会に委譲しているのですから、

        同じように朝鮮総督府もホッジ中将の命令を拒否するには、行政能力の欠如を主張すれば良かったし、そもそも朝鮮総督府がホッジ中将へネガティブネタを吹き込まなければ、再び太極旗を日章旗に変えろなどと無茶な命令をホッジ中将は発しなかったと思います。

        ただ、それをしなかったのは、朝鮮総督府と日窒コンツェルンが呂運亨を見限ったからであり、なぜ見限ったかと言えば、8/16南北分割統治が決定したからでしょう。

        すなわち、南部朝鮮のみ米軍による分割統治ならば、日窒コンツェルンは資産価値のない南部には興味はないから撤退するでしょう。

        朝鮮総督府は米軍単独の軍政支配となれば、左翼的な建国準備委員会より、右派で民族派の金性洙、宋鎮禹、の韓民党の方が米軍の支持を得やすいと踏んだからではないか、というのがここでの私の推察です。

        1. 呂運亨、宋鎮禹、安在鴻、曺晩植の4人は、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作と共に戦後の朝鮮半島の治安維持のために協力してくれた親日勢力である。

          ただ私は親日の範囲を越えて、大日本帝国の工作員である可能性が非常に高いと思っている。

          玉音放送のすぐ後、呂運亨、安在鴻、が取りあえず、建国同盟を使い治安維持を行い、宋鎮禹は金九上海臨時政府勢力と呂運亨の統一戦線を構築するため、呂運亨とは別路線で行動した。

          建国同盟は1944年8月呂運亨が作ったとき、既に日本の紐付き独立運動団体であったが、そのお陰で、1945年8月15日には、呂運亨は直ぐに治安維持の行動をとることができた。

          1945年8月15日、たった1日で建国同盟は建国準備委員会に昇格し、全朝鮮に145支部を有する一大独立運動勢力に躍り出た。

          その後たった1週間で、北部支部は曺晩植のもと人民委員会としてソビエトから自治権を委譲されるまでの組織となった。

          しかし不思議なことにその活動費は、どこが出してたのか全くわからない。

          無償でこのような大きな運動が1年以上展開できる訳がないのに、世の中の評論家は何も言わない。

          呂運亨や曺晩植といった朝鮮独立の英雄を賛美するだけなら楽だ、難しいのは暗部も見なければならない事だ、費用の捻出元を限定することだ。

          朝鮮総督府や日窒コンツェルンが彼らに費用を出したであろう事は明白だ、なのに未だに全く伏せられている。

          さて、もしの呂運亨、安在鴻が、建国準備委員会による独立国家建設に失敗した場合は、遠藤柳作は当然、次のオプションを考えていた。

          金性洙と湖南財閥に新国家建設をやらせる事、朝鮮南部に独立国家を作る計画を用意していたのだろう。

          それが9/16宋鎮禹、金性洙が韓民党を結成した理由である。

          韓民党は京城紡績の影響下にあり、京城紡績は関東軍の尻馬にのって南満州に進出したほどの親日企業だったため、朝鮮庶民には人気がなかった。

          そこで、朝鮮国民に人気のある重慶臨時政府の金九らの協力がどうしても必要だった。
          それゆえ、宋鎮禹は常に金九を重要視していた。
          しかし、残念ながら金九は蒋介石に取り込まれていた。

          湖南財閥は大日本帝国の申し子と言われている京城紡績を含む財閥だが、日窒コンツェルンと比べたら資金力は天地の差がある。ただし親日とはいえ曲がりなりにも朝鮮人の財閥であり、東亜日報グループと呼ばれているように、新聞社を持っており、世論形成能力はあった。

          1945年12月16日~26日まで、モスクワで3国外相会議というものが開かれた。
          各地域の戦後処理、極東における占領政策、平和の確立などについて討議された
          米国、ソビエト、英国による会議だ。
          その会議の中で、朝鮮半島についても話し合われた。

          ここでで決まった「信託統治」について、内容がよくわからず報道されたため、朝鮮半島は「反託運動」で大騒ぎになった。
          東亜日報が12/28日「信託統治」に関して誤報を流したからだ。

          独立派は右も左も盲目的に「反信託統治」運動をしたため、南北分断のまま新国家建設が進むのを阻止する効果があった。
          実際は5年後には統一朝鮮独立国家を誕生させるための信託統治だったのに、何かの策略でほとんどの団体が反信託統治運動に扇動された。

          そして「信託統治」に慎重だった宋鎮禹が、明確に反対しないからという理由で、金九に暗殺されてしまった。

          この暗殺の裏には、蒋介石から莫大な活動資金を貰っていた金九の、表に出来ない大人の理由があったと思われる。

          政治活動資金が中国から出ているということは、金九は蒋介石の代理人だということだ。

          宋鎮禹は大日本帝国の傀儡であるのだから、金九が蒋介石と手を切らない限り、宋鎮禹は金九を糾弾せねばならない。

          金九は帰国早々、宋鎮禹に正体を見抜かれたので、先手を打って宋鎮禹を暗殺するしかなかった、1945年12月30日の事である。

          宋鎮禹暗殺により、韓民党は金九ら上海臨時政府勢力が乗っ取った。
          韓民党総裁宋鎮禹が殺されたという事は、南朝鮮における保守勢力の中で、親日派の影響力が大幅に減少したということだ。
          それは韓民党内の中国勢力の影響力が大幅に増したということだった。

          金九は1945年11月23日上海から帰国している。

          蒋介石は金九に1億元プラス20万ドルもの活動資金を渡している。
          当時の元レートがいかほどかちょっとわからないが、20万ドルの価値は相当なものだ。
          終戦直後の米ドル20万ドルは莫大で、更に1億元という資金があれば、この時点で金九は朝鮮有数の大金持だ。

          金九は湖南財閥に頼る必要はなかった。

          それで有象無象の連中が金九の回りには群がっていたと思われる。

          韓国の戦後史の謎は多い、特に1945年の韓国史は嘘に嘘を重ねた為政者の改竄資料によって、真実は全くわからなくなった。

          宋鎮禹暗殺は李承晩だという説もあるし、金九については小沢一郎が訪中したさい真っ先に墓参りしたように、田中派とは何かしら深い絆があったのかも、と思わされる事もある。

          ただ言えることは、米ソ南北分割統治に決まったことにより、朝鮮総督府と日窒コンツェルンは、計画してた呂運亨首班とする傀儡国家建設計画を諦めるしかなかった。

          日窒コンツェルンは南朝鮮から撤退し、朝鮮総督府は呂運亨から宋鎮禹に乗り換えた。

          1945年9月16日に、湖南財閥の金性洙が、張徳秀、趙炳玉、尹潽善などとともに、韓国民主党(韓民党)を創設し、宋鎮禹が首席総務となった。

          日窒コンツェルンは、北朝鮮で曺晩植を担いでの傀儡国家建設計画に全力を注ぐこととなった。

          南朝鮮では李承晩が10月16日に帰国し宋鎮禹が死んだあと金九と対立する。

          北朝鮮では金日成が9月19日に元山に上陸、10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前に初登場するも、若すぎると民衆から批判が出る。
          日窒コンツェルンにとって米ソ分割統治が決定した後の南朝鮮は魅力がなかっただろう。米国主導の民主主義で、戦前の資産を引き継ぐのは難しかったのだろうから。

          日窒コンツェルンは戦前から多くの民族派団体に資金援助していたと思われる、中でも共産主義者とは明石元次郎の時代から深い付き合いがあったようだ。
          黒龍会のような右翼団体も建国同盟のような民族派団体を通して深く親交があったと思われる。
          どれも日窒コンツェルンの戦後のための工作部隊であったと思われる。

          以上で宋鎮禹についての考察を終わります。

          呂運亨、曺晩植、宋鎮禹、日本では有名ではないが、
          実は日本と深く関わっていた朝鮮独立運動家について、
          ちゃんと考察せねば、朝銀破綻の謎に近付けない、
          そんな思いで書きました。

          そして、次から、遂に朝銀破綻の謎の確信、
          金日成について、書きたいと思います。
          楽しみにしてください(笑)

          《続く》

          1. 金日成①

            朝鮮において「光復」という単語は「奪われた主権を取り戻す」という意味があるそうです。

            大韓民国において光復節とは、1945年8月15日に朝鮮が、日本の統治から自主独立を取り戻した事を示します。

            光復節のことを、8・15光復とも表記するのはそのせいです。

            しかし実際には、韓国の独立は米軍政からの独立した1948年8月13日であって、1945年8月15日ではありません。

            また北朝鮮の独立も、金日成が抗日革命闘争を勝利へ導いたことでもたらされた偉業と認識されていますが、こちらの方も、ほとんどの人が否定するでしょう。

            玉音放送から数ヶ月間は、朝鮮半島の記録はあやふやで不正確な記述が多い。

            呂運亨、宋鎮禹、安在鴻、曺晩植、他、多くの独立運動家が登場するが、その行動は謎だらけです。

            その代表選手が、金日成でしょう。

            金日成は1945年9月19日にウラジオストクから、ソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たしました。

            金日成について語るとき、必ず言われるのが、1945年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した時の「偽物騒ぎ」です。

            このとき、金日成は33才、伝説の将軍「金日成」がこんなに若いはずがない、というわけです。

            さて、このことについては、金日成は4人いるという説などもあるので、後程、じっくり解説せねばならないと思いますが、私が不思議に思うのは、そんなところよりも、何故ソビエトはこんなに若い指導者を傀儡を立てたのか?という疑問です。

            ソビエト軍特別宣伝部長・グリゴリー・メクレル中佐が金日成を傀儡に仕立てたと言われてるようですが、どう考えても不自然です。

            傀儡を立てるなら、私なら50才くらいの朝鮮人にします。

            当然、グレゴリーメルケルもその程度の事は考えたはずです。
            それならば、何故33才の金日成を傀儡に選んだのか?
            考えられる理由は2つしかありません。

            第1、金日成の人気と能力がずば抜けていたから、正当に選ばれた、若すぎることぐらいどうってことなかった。

            第2、誰かに頼まれたから。

            私は第2だと思います、そしてメクレルにそうさせたのは関東軍工作員ではないかと思います。

            いくら資料を調べても、金日成が、日本の軍部と通じてたり、日本の資本家や秘密結社に通じていたなどという記述は、ほとんど出てきません。

            しかし、大日本帝国が大東亜戦争を引き起こした大義を考えると、大日本帝国陸軍が、じり貧に西洋列強に降伏するとは思えない。

            インドネシアでもベトナムでも残置諜者が残り、ゲリラ戦を展開し、現地民族と共に戦って独立を勝ち取っている。

            たとえ日本本土が原子爆弾で降伏したとしても、広大な満州、朝鮮半島でゲリラ戦もできるのに、あの関東軍が簡単に敗北を認めるでしょうか。
            しかし、戦後そういった記録はほとんど残っていない。

            ゆえに推測してみるしかない。

            さて、独立運動するには金が必要です。

            そこで当時、朝鮮随一の大財閥日窒コンツェルンが出てきます。
            当時の日窒コンツェルンの朝鮮半島における資産は、平成の貨幣価値に換算すると200兆円ほどありました。

            これだけ膨大になると、持ち運ぶことはできません。

            日本の敗戦によって200兆円失うか、それとも傀儡政権をつくって保持するか、この違いは金額が金額だけに想像を絶するほど大きい。

            潔く諦めるのであれば、何の問題ないのですが、古今東西、資産家というものは、みんな諦めが悪いものです。

            日窒コンツェルンも、ご多分に漏れず諦めの悪い財閥だった。

            日本が戦争に負けたからといって、簡単に半島の資産を諦めてしまうような財閥ではありませんでした。

            日窒コンツェルンは日本が敗戦する事を十分予想していました。
            それゆえ二重三重の仕掛けを施したに違いない。
            凡人の想像を絶するような、財産保全の方法を考えていたと見るのが正しい。

            さて、日窒コンツェルンは1925年6月、朝鮮総督府から蓋馬高原の鴨緑江支流の赴戦江の水利権を得て、20万kWの赴戦江発電所を建設した。

            これにより1926年1月に朝鮮水電株式会社、翌1927年5月には、朝鮮窒素肥料株式会社が設立した。

            1933年5月には長津江、1937年1月には虚川江の電源開発に着手、合計12箇所の発電所で87万kWの電源を確保した。

            これら蓋馬高原に建設したダムによる大電力を利用して、ダム群の日本海側にあたる咸鏡南道咸興郡には興南、永安、本宮の3工場が建設された。

            これらの工場では主に合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安などの肥料が製造されたが、他にも油脂、石炭低温乾留、アルカリ、カーバイド、火薬、金属精錬など多角的な化学工業が展開された。
            興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m2、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた。

            設備能力では水電解設備は世界第1位、硫安は年産能力50万tで世界第3位と、世界屈指の化学コンビナートであった。

            これら硫安工場、ダム、水力発電所、更に興南地区に広がる世界最先端の化学コンビナートなどは、いづれも終戦時には無傷で残っていました。

            連合国に朝鮮人独立国家さえ認めさせることができれば、日窒コンツェルンの資産は丸々朝鮮民族のために残せるわけです。

            当時の日窒コンツェルンの首脳部が、会社単体として咸南エリアに朝鮮人国家設立を考えたとしても不思議ではありません。

            日窒コンツェルンは多くの朝鮮独立運動家を抱えていたと考えるのは突飛でしょうか?

            《続く》

          2. 金日成②

            日窒コンツェルンほど巨大企業になると、企業と国家、どっちが上かわからなくなるのは、三菱や日本製鉄のキャッチコピーを見てもわかります。

            「三菱は国家なり」は、戦後の日本産業界に流布した強力な神話です。

            「GMは国家なり」は1952年、米国アイゼンハワー政権の国防長官に任命されたゼネラル・モーターズ(GM)のチャールズ・ウィルソン社長の米国議会での証言だ。

            「鉄は国家なり」は、今はついぞ聞かれなくなったフレーズだが、戦前、戦後の高度成長期にわたって鉄鋼産業の力は国家の力そのものだった。

            日窒コンツェルン:昭和一七年には、日本窒素肥料は、製造会社としての使用総資本で、三菱重工業、日本製鉄に次ぐ、第三位の規模にまで達している。
            化学会社では、なんと世界第3位だ。
            朝鮮半島東北部に自分達の王国を作ろうとしたって何の不思議もないだろう。

            勿論ここで言う自分達とは朝鮮民族国家の衣を被った私企業であるという意味です。

            現代のグローバリズムに、国境、民族の壁はないが、日窒コンツェルンは早くも、この思想の域に達してたのかもしれない。

            朝鮮総督府と朝鮮独立運動家は対立する存在です、しかし日窒コンツェルンは両方に金を出していたと見て間違ってはいないでしょう。

            それでは大戦末期、日窒コンツェルンは、どうやって自社の財産を守ろうと考えていたのか、何しろ日本本土の工場は軒並み空襲でやられてたにも関わらず日窒コンツェルンの工場は無傷であった。

            日本窒素肥料の専務白石宗城(吉田茂の甥)は、ソビエト軍が侵攻してきたとき、軍がどうしても工場を破壊するというなら軍でやれ、と破壊命令を拒否し、職員に生産続行を訓示した。

            「この工場の生産物は平和産業として朝鮮にとっても必要かつ重要なものであるので、必ず生産を許されるにちがいない」と生産を続行し続けた。

            日本人技師は終戦後もソビエトから請われ工場操業のため咸興地区に居続けた。

            日窒コンツェルンの財産は工場群であり、操業すれば富を吐き出し続ける事ができ、欧州や日本が戦禍で工場生産が止まってる時代だから大層価値があったにちがいない。

            基本的にダイヤや宝石が原資のM資金や丸福金貨の山下財宝と違って、人・物・工場の3点セットが原資である日窒コンツェルンは、ソビエトから見れば大層価値があるものに見えたに違いない。

            ここでちょっと余談だが、M資金や山下財宝というのを聞いたことはあるでしょう。

            終戦時の日本の隠匿資産です。

            日本政府は大戦前から、植民地に次々と中央銀行を設立させてきました。

            日中戦争が勃発すると、南京の汪兆銘政権のもとに、中央儲備銀行を作り、太平洋戦争が勃発すると、インドシナ、ジャワ、マレー半島には、南方開発金庫を作り、南発券という現地通貨を発行しました。
            あと、内モンゴルには、蒙疆銀行を作りました。

            日本軍の侵略するところ、次々と中央銀行は設立され、
            円経済圏を作り上げて、さらに戦線を拡大していった。
            植民地通貨で軍事物資を買い集め、日本軍は戦争を遂行していったというわけです。

            金貨、ダイヤモンドは、密かに各々の中央銀行に隠匿したのでしょう。
            それが、M資金や山下財宝の正体です。

            フィリピンルバング島で小野田寛朗が残置諜者となって守っていたのが、山下財宝だと言われているのは有名な話です。

            小野田少尉は大戦末期1944年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。

            当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付となっており、その師団長横山静雄陸軍中将から

            「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」

            と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている。

            派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。

            さて、日窒コンツェルンの巨大資産は200兆円、動かすことのできないインフラ資産です。
            この場合、資産を守るには、傀儡国家を作るかしかありません。
            大量の残置諜者が大戦末期に北朝鮮、満州、ソビエトの国境地帯に放たれたとおもわれます。

            当然、抗日パルチザン等にも関東軍や朝鮮軍、日窒コンツェルン、黒龍会から多くの工作員が入り込んだはずです。

            日窒コンツェルン総帥、野口遵は1944年1月15日死去しましたが、その死の寸前に、自らの私財3000万円を野口研究所と朝鮮奨学会に寄付しました。

            私は日本敗戦を睨んだ上での、日窒コンツェルン生残り計画の活動資金だと思っています。

            日窒コンツェルン、朝鮮総督府、朝鮮軍、朝鮮銀行、黒龍会、みんなで共謀し、呂運亨や宋鎮禹、曺晩植といった独立運動家を操り、地下組織を作り、資金提供をし、連合軍を欺いた。

            南朝鮮では呂運亨は建国準備委員会を作り、曺晩植は北朝鮮全域に人民委員会網を作り上げた。

            日窒コンツェルンの企業城下町咸南、元山、興南ではソビエト軍が進行する前から、朝鮮人による速やかな行政権の行使をシュミレーションしていたと思われます。

            それが8/25チスチャコフ大将が行った咸鏡南道の行政権を岸勇一知事から摂取したうえで、半日で朝鮮民族咸南執行委員会に治安・行政権委譲した「咸興方式」です。

            《続く》

          3. 金日成③

            「咸興方式」でソビエト軍は北朝鮮五道の植民地行政機関を、朝鮮人組織(人民委員会)に素早く切り替える事ができた。
            日本人の、憲兵・警察官、全て武装解除した。

            その後、北朝鮮では以下のように行政形態が変遷していく。

            ・朝鮮人民共和国・人民委員会設置1945年9月6日
            ・ソビエト民政庁設置1945年10月3日
            ・北朝鮮五道人民委員会連合会1945年10月8日
            ・北朝鮮臨時人民委員会樹立1946年2月8日
            ・北朝鮮人民委員会樹立1947年2月20日
            ・朝鮮民主主義人民共和国建国1948年9月9日

            この中で特筆すべきは10/8五道人民委員会連合会だ。
            ソビエト民政庁が作った行政機関だ。
            このとき委員長に選ばれたのが曺晩植である。
            つまりソビエトは北朝鮮最初の行政機関の長として曺晩植を選んだということだ。

            しかし、この年の年末モスクワ3国外相会議で「信託統治」の問題が持ち上がり、強硬な反対姿勢を崩さなかった曺晩植はソ連軍当局と対立し、これが原因で46年1月5日から軟禁状態に置かれた。

            翌年2/8の北朝鮮臨時人民委員会では金日成が委員長に任命された。

            さて、曺晩植は何故「信託統治」に頑なに反対したのか?
            私にはわからない。
            ちょっと妥協すればよかったのに、と思ってしまう。
            もしかしたら、信託統治反対というのはただの口実で、他に理由があったのかもしれない。

            そして、もうひとつの疑問が、金日成というのは、何故こんなにメクレルに好かれたのであろうか?

            クレゴリーメクレル、ソビエト軍特別宣伝部長という肩書きだが、どうもよくわからない。

            このメクレルが、金日成を傀儡のトップに選んだと言われているが、まず不思議なのが、何故33才の若者を傀儡に選んだのか?ということだ。
            ソビエトの言いなりになるソビエト籍の高麗人ならいくらでもいた。

            「金日成伝説」を利用するつもりだったのなら、年齢的なギャップを考えて、50代の朝鮮人を選ぶのが普通であろう。

            それでは、ここで「金日成伝説」というものについて、少し考えてみよう。

            伝説が生まれたのは1920年代、そして三一運動にまで遡らねばならない。

            1919年3月1日、有名な三一運動が起こる。
            この運動に感化された一人の朝鮮人(帝国陸軍騎兵中尉)が、脱走して独立運動に身を投じた、名を金光瑞という。

            ところで余談だが、どうもこの三一運動、日本人と朝鮮人とで解説が全然違う。
            まともな数字がさっぱりわからない。
            たとえば死者の数だ。
            南京事件顔負けのデタラメな数字が、日韓双方、大真面目に語られてる。

            ウィキペディアによると、『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名と紹介しているが、日本の警察によれば死者357名である。

            資料は日本も朝鮮も信用できないので、あんまり関わりたくない事件だが、実は、この三一運動の人数の誤差などは、まだまだ序の口である。
            この時代の朝鮮半島周辺には非常に不確かなことが多い。

            まあ時代を考えれば、中国もソビエトも革命のまっ最中。
            致し方無い点も多い。
            でも、だからといって、日本にも信頼できる情報がないとはお笑いである。

            その中で、私は推察して書くわけだが、正直その判断基準も適当である。

            さて、この頃、朝鮮独立運動は暴力的なものは少なかったといわれているが、
            その中にも、抗日朝鮮人武装集団というものはあった。
            俗にいう抗日パルチザンである。

            1920年、尼港事件、間島事件(琿春事件)、と大きな日本人虐殺事件が立て続けに起こっており、そこに出てくるのが朝鮮人抗日パルチザンだ。

            シベリアには多くの高麗人が住んでおり、義兵闘争のころから沿海州に逃れ、独立運動をくりひろげてきた朝鮮人亡命者も多い。

            大日本帝国朝鮮軍とパルチザンとの闘争はシベリア出兵にまで遡る。
            この時代、シベリア出兵から、大日本帝国朝鮮軍の思想の根底に、現代日本まで続く、日本の右翼団体の思想がある気がする。

            シベリア出兵はチェコ兵の救出というのが大義名分だが、
            その本質は全然違うことは明白だろう。
            最初出兵は8000人というアメリカとの約束を破って、
            最終的に73000人もの兵をシベリアに投入した。
            このような事が出来たのは、大きな思想的背景があったからに違いない。

            同時期に行われた間島出兵は日本人居留民保護という明確な目的があった。
            朝鮮軍第19師団が派遣され、戦闘した相手は「不逞鮮人」と呼ばれるゲリラ、つまり抗日パルチザンだ。
            韓国側から見れば、それは朝鮮独立軍という事になる。
            「居留民保護」という名目で原内閣は出兵を許可したが、
            裏で糸を引いていたのは「黒龍会」である。

            黒龍会という組織は、1901年(明治34年)1月に設立された国家主義(右翼)団体である。

            中国・満州・ロシア国境を流れる黒龍江に名前が由来する。
            対露開戦を主張。
            玄洋社の海外工作センターといわれた。
            海外では日本の壮士集団、BLACK DRAGON SOCIETYとして恐れられていた。

            インドの独立を支持し、
            フィリピンの独立を支持する。
            しかし、いったい何の目的で大アジア主義を唱えるのかよくわからない。
            そして黒龍会を知れば知るほど朝鮮人に優しい事がわかる。
            彼らは朝鮮併合でなく、朝鮮合邦を常に要求していた。
            となれば、彼等は朝鮮総督府には煙たい存在だったのか、
            と言えばそうでもない。
            とにかく、黒龍会の指導者内田良平は間島出兵を原内閣に飲ませた政界フィクサーであった。
            間島は朝鮮半島北部から満州に入った朝鮮人居留民の多いエリアの中国領だ。
            そこには多くの朝鮮人抗日パルチザンが住み着いていた。

            彼等が純粋な朝鮮愛国者なら黒龍会は出兵には反対するのが筋である。
            もう主義よりも金銭的勘定しかない気がする。
            大陸に傀儡国家建設を夢見る帝国の欲が、
            大アジア主義という大義名分をまとっているようにしか思えない。
            悪くいえば、資本家の掌の上で踊らされていたのではなかろうか?

            さて尼港事件と間島事件を結びつける資料は少ないが、
            決して別々の事件ではない、共通項は朝鮮人抗日パルチザンだ。
            この抗日パルチザンに、日本の陸軍士官学校出身者が何人かいる。
            尼港事件には参加してないようだが、
            池青天1888年生まれの26期生、金光瑞23期生、の二人である。

            この二人は中国吉林省柳河県に朝鮮人が作ったゲリラ学校「新興武官学校」の教官をやってたこともある。
            そして、どうやらこの「金光瑞」が金日成のモデルらしい。

            《続く》

          4. 金日成④

            1920年10月に起こった日本軍と朝鮮人の独立運動武装組織及び中国人の馬賊との間で行われた戦闘がある。
            「青山里戦闘」という。

            池青天は参加したが、金光瑞は加わっていない戦闘だが、
            今の韓国政府は、この戦いを重要視しているそうだ。

            情けないことに、このような小競り合いでも、朝鮮独立軍が活動していた証になると思っているらしい。

            確かに、資料が正確に残っているなら、それでもいいだろう。しかし、資料がデタラメだ。
            日韓によって死傷者数が全然違う。
            日本側記述では、日本兵戦死11負傷者24、将校の死傷は0。
            これが韓国側発表だと、日本兵死傷者3300人となる(笑)

            こうした間島出兵の頃、金光瑞はウラジオストックで季東輝の元にいた。
            輝東輝というのはウラジオストックで活動している朝鮮人独立運動家だ。
            上海の大韓民国臨時政府に参加し、初代軍務総長、
            上海での合同時では初代国務総理、副大統領などの要職を歴任している。

            朝鮮人抗日パルチザンが赤軍に付いたのは1920年頃である。当時、李東輝がレーニンに資金援助を求めたからだ。
            これにより、間島、シベリアの抗日朝鮮人集団と赤軍が合併した。
            そして起きたのが尼港事件と間島出兵だ

            尼港事件、1920年3月、パルチザン部隊4300名
            (ロシア人3000名、朝鮮人1000名、中国人300名)、
            殺された住人は総人口のおよそ半分6000名、
            日本人犠牲者731名。
            残虐な事件だが、知りたいのは赤軍ロシア兵のことではない。
            およそ1000人いたという朝鮮人抗日パルチザンの行為だ。
            本当に猟奇的行為が行われたのか、本当のところがわからない。
            色々資料を探したが、抗日パルチザン朝鮮人のことは不逞鮮人と呼ぶだけで、具体的な名前が出てこない。

            穿った見方をすれば、尼港事件の悲劇は、間島出兵の口実に利用されたような気もする。

            1920年代間島地域が米国西部開拓時代のようなものだと考えれば、特段日本国民が騒ぎ立てるほどの事件でもない気がする。つまりは治安が悪いってだけだ。

            しかし尼港事件の報道で、日本社会は不逞鮮人が野蛮だと染み込まされた。
            シベリア出兵の大義名分プロパガンダとして、
            わざと大陸利権を狙う資本家に流布されたと見る事もできる。
            いずれにせよ間島出兵の不逞鮮人による事件は、尼港事件を除けば、普通に見ればただの強盗事件だ。
            朝鮮独立軍など、ただの強盗団の隠れ蓑ではなかったのか。
            当然、利権目的でなければ日本の軍隊が出ばる必用はない。

            ちょっと事件を記述するが、強盗事件ばかりだ。

            1920年1月4日には「大韓国民会」を称する武装組織により、朝鮮銀行会寧支店から竜井出張所へ輸送中の朝鮮銀行券15万円が掠奪された。

            1920年3月15日には朝鮮人3人により平安北道宣川郡泰山面面長及び面書記が銃殺された。

            1920年5月には琿春「韓民会」の金雲瑞率いる十数人により慶源西方で郵便配達員が襲われ憲兵が殺害された。

            1920年6月4日には、午前5時に穏城郡南陽対岸の三屯里から朝鮮人武装組織50人が豆満江を渡河して日本の警察憲兵及び守備隊と銃撃戦となり、武装組織は三屯里の民家に退却した。

            事件の背後に有力な一団があるとみた日本陸軍の第19師団は、安川少佐率いる歩兵2個中隊による追撃隊を派遣、同年6月7日に汪清県鳳梧洞で家屋内から射撃する独立軍と4時間にわたり衝突し、日本軍の戦死者は1人、武装組織は遺棄死体33人以上を残し、捕虜8人を捕らえた。
            (鳳梧洞の戦い)

            この戦いを見るや上海の大韓民国臨時政府は「我が軍の大勝利」と、図們江軽便鉄道占領説など、誇大な宣伝発表を行ったらしい。
            21世紀においても韓国政府はこの戦いを重要視しているらしいが、果たしてどこまで本当か。

            1920年9月12日、10月2日の二度にわたり琿春が馬賊等に襲撃され、日本領事館が焼失し、女性や子供を含む13人が殺害される事件が発生した。
            (琿春事件)

            このようにあらゆる事件を、韓国独立闘争に加えねばならないところに、韓国建国神話の幼稚性が見てとれる。

            すなわち、朝鮮独立軍というのは無かったと切り捨てる方が歴史的にはスッキリする。

            しかし切り捨てなかったのは、これ即ち日本の事情だ。

            黒龍会の大陸進出の大義名分に利用されたとクールに見る方が正しいだろう。

            もちろん黒龍会の背景には財閥がいて、帝国陸軍がいて、朝鮮総督府がいた。

            1920年10月7日、この琿春事件を「不逞鮮人」による襲撃とした原内閣は、居留民保護を名目に間島出兵を閣議決定し、中国側との折衝を開始し、それぞれの範囲を決め討伐を開始した。

            その後、追い詰められた池青天の朝鮮人部隊は、さらに内紛で分裂し、1921年6月の黒河事変の際に赤軍によって武装解除させられ、あげくのはては、赤軍の捕虜になり満洲に追い出された。
            国際情勢の変化は早いと言わざるを得ない。

            日本政府とソビエト連邦とが仲良くなると、
            ソビエト政府は急に朝鮮人抗日パルチザンに冷たくなる。
            抗日パルチザンは1923年8月末、ソ連政府の庇護を期待してウラジオストクで、大韓民国臨時政府は独立宣言を発してコミンテルンの承認を待った。

            しかし1924年コミンテルンは大韓民国臨時政府承認せず組織は四散した。

            金光瑞は李東輝と別れ、日本軍を避けて、スーチャンに入った。
            スーチャンとはナホトカの北に位置する街で、現在名パルチザンスクという。

            《続く》

          5. 金日成⑤

            さて、「伝説の金将軍」だが、
            本名は金顕忠、独立運動では金光瑞、金擎天と名乗った。
            彼はシベリアのパルチザンスクに拠点を構えると、
            そこでパルチザン部隊を結成し、韓昌傑部隊、サビツキー部隊とともに、中国人馬賊部隊(古山グループ)と交戦し、これを退けた。
            とあるが・・・
            正直、サビツキーも韓昌傑も古山グループも、初耳である。
            全く無名なため、この話がどこまで凄いのか、私には全くわからない。
            ウィキペディアにも載ってない。

            ただ、金光瑞は、この馬賊退治で名を挙げ、
            「金将軍」と呼ばれ、有名になった。
            1920年代の朝鮮半島では、金将軍は伝説であった。
            何でも白馬にまたがった色男だったそうだ。
            京城の新聞では、金光瑞の朝鮮独立運動家としての知名度はNO.1で、新聞への露出も多く、女子供にまで相当人気があったらしい。

            これが俗にいう「キム・イルソン伝説」の始まりだ。

            まあそんな人気者の金光瑞だが、運気が下がったのか、スターリンの大粛清で1936年スパイ容疑で逮捕され、その後釈放逮捕を繰り返し、1942年、獄死してしまう。

            そういうわけで、金光瑞の解説は終わり。

            次の金日成伝説モデルを見てみましょう。

            時代は流れて1940年10月、
            満北国境の沿海州、及びハバロフスクに目をやってみる。
            何故この時代かというと、本物の金日成が野副討伐隊に追われて、満州国境を越えてソ連領へ逃れてきたのが1940年10月だからだ。
            このとき金日成が率いてたのが「東北抗日革命軍」から名を変えた「東北抗日連軍」の第一路軍第二軍第六師だ。
            金日成が師長として率いていた隊だ。

            このとき金日成に付き従うもの、たった16名だったという。
            本人はハバロフスク会議に呼ばれたから越境したと言っているが、他の資料では野副討伐隊に追われて命からがら越境したとなっている。

            さて、それでは何故、そんなにしつこく日満の討伐隊に、
            追われるようになったかと言うと、3年前、
            1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いに有る朝鮮の咸鏡南道甲山郡普天面保田里を、東北抗日連軍、第1路軍、第2軍第6師が、襲撃したからだ。

            これが俗に言う「普天堡の戦い」である。

            実はこの普天堡の戦いを指揮したのが、金日成だ。

            しかしこれが1940年10月に満ソ国境を越えた金日成だとすると、普天堡当時、彼は25才だった事になる、若すぎる。
            ゆえに1940年10月に満ソ国境を越えた金日成は、
            普天堡の戦いの金日成とは別人だという説がある。

            これは今でも意見が割れていて、どっちが真実かわからない。
            もし同一人物説を取るとなると、
            若干25才で普天堡の強盗事件でお尋ね者になり、
            賞金1万円を懸けられた金日成は、
            大したワルだったということになる。

            正直言ってこの時代、若干25才で賞金1万円はともかく、
            東北抗日連軍第1路軍第2軍第6師長に25才でなるのは、
            ちょっと無理じゃないかと思う。
            それに普天堡の戦いにおける金日成は35歳以上だったという隊員の証言もあるし、
            中国の資料じゃ別人であると、ハッキリ書いてあるらしい。
            ゆえに、カニ太郎は別人説を取る。

            ここまでで金日成は計3人。

            あと一人は義兵闘争時代に白頭山に籠って戦った、
            元韓国軍将校で金一成という人物がいるらしい。
            この人を加えて計4人の金日成がいた、ということになるらしい。

            1940年当時、ソ連88旅団と言うものがあった。
            司令官は、周保中という中国人であった。
            ソ連軍(第88独立狙撃旅団)中佐の称号を持ち、
            その部下に崔庸健少佐がいた。
            ソ連に越境してきた金日成を保護したのがこの崔庸健だ。
            崔庸健は後の北朝鮮最高人民会議常任委員長を務めた崔庸健だ。

            さてここで疑問その1、
            ソ連は何故、崔庸健でなく金日成を傀儡に選んだのか?
            崔庸健の方が金日成より歳も階級も上だったはずなのに。
            ソ連のスターリンに最も忠実だった金成柱(金日成)を北韓政権の第一人者に仕立てたとか言う資料もあるが、本当か?
            ソ連は当時、ソ連軍大尉だった金日成に北朝鮮を任せるように企画した。

            ソ連軍政の政治司令官だったニコライ・レベデフは、
            「金日成の本当の名前が金成柱キム・ソンジュということを知っていたが、『抗日パルチザン闘争民族英雄・金日成将軍』を象徴するために金日成の名前をそのまま使った」と後に証言した。

            このキム・イルソン伝説に乗っかろうとしたのは誰か?
            当時北駐屯軍司令官兼赤軍25軍団の司令官であったイワン・スチチャコフ、
            政治局第7課(特殊プロパガンダ)長グレゴリー・メクレルか、
            ソビエト民政庁長官ニコライ・レベデフか。

            ソビエト連邦は「信託統治」問題で曺晩植が反抗したため、
            早急に後釜を決める必用があった。
            はたして北朝鮮に「伝説の金将軍」の傀儡国家を作ろうとしたのは誰か?
            それが問題だ。

            ソビエト連邦が朝鮮人を使って、
            北朝鮮を間接的に支配しようとしてたのは本当だろう。
            しかし、この「キム・イルソン擁立計画」はメクレル発案ではないだろう。
            何故なら、白人が、こんなアホな事、思い付くはずがないからだ。
            となると、きっと日本人の仕業だ。

            《続く》

          6. 金日成⑥

            私は1945年末モスクワ3国外相会議まで、ソビエト当局に確たる北朝鮮統治方針はなかったと考えている。
            この会議で5年間の信託統治が決定したが、
            曺晩植が傀儡国家の首班になるのを拒否、信託統治に頑なに反対したゆえ、早急に曺晩植の替わりをたてる必用があった。

            しかし、曺晩植は何故そんなに傀儡国家首班の座を嫌がったのか、そもそも本当に嫌がったのか、
            もしかして別の理由でソ連当局に疎まれて更迭されたのかもしれない。
            もしかして日本の傀儡だということがバレたのか?
            私にはわからないが、いずれにせよ、曺晩植は失脚した。

            1946年1月5日から軟禁状態に置かれ、朝鮮戦争で平壌の陥落が目前に迫った1950年10月18日に処刑された。

            1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、
            金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した。

            さて何度もいうが、金日成の本名は金成柱である。
            それを承知でソビエト当局の誰かが、伝説の金将軍として、
            1945年10月14日平壌の民衆の前に立たせ演説させた。
            こんな無茶な計画をプランニングしたのは誰か?

            グレゴリーメクレル一人でこんな計画を立てることができるわけないだろう。
            「金日成擁立計画」には建国パッケージがあった。
            誰かが、メクレルやスチチャコフ、レベデフに売り込み営業をしたのだろう。

            金日成派は抗日パルチザン派といって、北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。

            その中で、ソビエト当局に敢えて金日成を選ぶように根回しした人物がいる。

            もう、ここまで読んだ人には、だいたい想像がつくだろう。
            そんな手の込んだ芸当ができるのは、日窒コンツェルンしか考えられない。
            世界に冠たる軍事企業ゆえ計画に抜かりはない。
            世界各国上層部へのプレゼンは要人を絞って、要所を押さえ、あらゆる事態に備えて完璧にプランニングしてあるものだ。

            ソビエト側が金日成一本化にまとまったのも無理はない。
            朝鮮総督府や朝鮮軍や関東軍の残置諜者も加わっての、
            日窒コンツェルン営業マンによる世紀の政治工作だったのだろう。

            1946年2月8日、北朝鮮国家新設計画という巨大プロジェクトが動きだした。

            ところで、私がこのように建国ビジネスの事を語ると、
            恐らく何を突拍子もない事を言ってるのか、といぶしがる人もいるだろう。

            そこで、大戦末期の建国ビジネスは、北朝鮮だけではないことを紹介したい。

            北京の西に山西省というのがある。
            そこに澄田らい四郎(1890年10月21日-1979年11月2日)という陸軍中将がいた。

            陸士24期・陸大33期首席であった。
            大戦末期、北京の西、山西省に駐留していた澄田中将は、敗戦を予期し、
            城野宏中尉(1913年8月31日-1985年12月21日)という東大卒の部下と共に、祖国復興を名目に、山西独立を掲げ、独立国家建設を企てた。

            しかしこの独立計画は、なんと商売であった(マジである)
            山西の地元財閥で独裁者である閻錫山と手を結び、
            毛沢東が率いる中国人民解放軍と戦うという大義を掲げ、
            澄田は建国ビジネスを実行したのだ。
            さすが陸大主席と東大卒は考えることが違う。

            現地軍閥の有力者閻錫山と澄田は山西省の豊富な石炭資源独占を企てた。
            たぶん地下資源豊富な山西省に傀儡国家を作れば、
            きっと王公貴族になれると思ったのだろう。
            驚くことに、澄田中将麾下の支那派遣軍第一軍将兵59000人もこれに応じた。

            この企てには、もう一人キーパーソンがいる。
            河本大作という退役軍人の元陸軍大佐だ。

            なんと河本大作は張作霖爆殺計画の立案者で、
            辛くも軍法会議は避けられたが、予備役編入を余儀なくされ、
            1932年(昭和7年)に南満州鉄道の理事、
            1934年(昭和9年)には満州炭坑の理事長となった。
            陸軍軍属の大物フィクサーである。

            1935年(昭和10年)2月には、南満州鉄道の経済調査会委員長。
            1942年(昭和17年)日支経済連携を目的として設立された北支那開発株式会社傘下の山西産業株式会社社長に就任していた。

            河本は実に見事なビジネスマンで、頭も良く、詐欺師の才能もあった。
            当時3万人いた現地民間人のうち、約1万が河本の建国ビジネス計画に応じた。

            この澄田、城野、河本のトリオは、
            残留日本兵約2600人を戦闘員として、なんと4年間も内戦を戦わせた。
            4年間のうちに約1600名は日本へ内地帰還できたが、
            残り約1000人のうち約550名が戦死した。
            残りは人民解放軍により、長きにわたる俘虜生活を強いられた。

            まさに、この山西省のビジネスは、北部朝鮮とそっくりなのである。
            ビジネス目的の建国計画に現地民と陸軍兵が乗せられ、
            さんざん踊らされたあげく、大半は死ぬか、失意の末に帰国した。

            残念ながら山西省独立計画は失敗に終わったが、
            北部朝鮮は少なくとも朝鮮戦争までは成功してたと言えないだろうか。

            中国では残留日本兵が国民党、共産党、双方に別れて戦っている。
            山西省残留日本兵は、反毛沢東で戦ったが、
            毛沢東の八路軍支配地域では、旧日本陸軍の飛行隊長を始めとする隊員300名余りが、教官となってパイロットを養成(東北民主連軍航空学校)に従事した。
            総勢で約3000名の日本人が参加した。

            シベリア、満州、朝鮮半島北部には、いったいどれだけの残留日本兵がいたのか、そして幾つの怪しい工作機関があったのか、詳しい数字はわからない。

            1974年当時、フィリピンで残置諜者となっていた小野田氏は、毎日ラジオも聴いていた。
            当然、日本が先進国となっている事は十分知っていた。
            ただ士官教育を受けた小野田氏は、
            その日本はアメリカの傀儡政権であり、
            満州国に亡命政権があると考えていた。
            信じられますか?
            日本の亡命政府が満州にあると、大戦末期の陸軍士官達は、
            大真面目に考えていたのです。

            だとしたら、傀儡国家を北朝鮮に建国しようとする企てが、
            大戦末期の関東軍や朝鮮総督府にあったとしても、
            何ら不思議な事ではない。

            プロパガンダ担当の宣伝部長メクレル中将は、
            旧日本軍の残置諜者、機関から、
            いろんな使える情報を集めていたと思われる。

            《続く》

          7. 金日成⑦

            さて、少し、ここまでの金日成について、まとめてみよう。
            1940年満ソ国境を超えるまで、金日成は東北抗日連軍に所属していた。
            「東北抗日連軍」は1936年に改編される前は「東北人民革命軍」といった。
            1933年9月、中国共産党の指導のもと、中共満州省委員会が東北地域に組織した抗日武装組織がそれである。

            第1軍から第6軍まであり、金日成は1936年3月、
            東北人民革命軍第2軍第3連隊の政治委員から、
            東北抗日連軍第2軍第3師の師長になった。
            若干23才であった。

            しかし、1937年11月18日の京城日報の記事には普天堡を襲撃した金日成(金成柱36歳)が満州国軍討伐隊に射殺されたとの記事がある。
            また満州国軍の機関誌である月刊『鉄心』にも、
            「金日成匪賊討伐詳報」として、この時の詳細な記録がある。
            普天堡事件で住民によって目撃された金日成は40歳前後と報告されている。
            また普天堡襲撃の共犯者とされる朴金喆・朴達(のちの朝鮮労働党甲山派領袖と重鎮)らは後に逮捕された際、金日成は普天堡襲撃当時36歳だと供述した。
            また東北抗日聯軍を指導する中国共産党側の人物による、
            証言・その他の中国語史料が公開され、
            普天堡を襲撃した金日成とソ連領内に退避した金日成は、
            同一ではないとされている。

            以上の理由により、私は1940年10月にソ連へ越境した金日成は、普天堡の戦いの指揮官ではないと、私は結論付ける。
            そうなると、金日成の正体を探るキーワードは
            『ソビエト軍第88独立狙撃旅団』ということになる。

            この第88独立狙撃旅団というのが、
            ハバロフスクにて金日成を保護した部隊だとなっているからだ。
            この第88独立狙撃旅団はハバロフスク近郊で、毎日訓練に明け暮れていたということはわかっている。
            しかし、全く実践には投入されなかったということである。
            構成は中国人9割弱、朝鮮人1割弱、あと少数民族がチラホラ。
            総員1500人規模の旅団だった、ということまではわかっている。
            恐らく朝鮮人は全部で130人ぐらいだろう。
            いったいこの中で金日成は5年間も何をやっていたのだろう。
            金日成は1940年10月にここに匿われて、
            1945年9月19日まで全く記録がない。
            ゆえに、この期間の金日成の行動は想像するしかないが、
            モスクワか、もしかしたら日本にいたのかもしれない。
            1940~1945までの5年間、
            第88独立狙撃旅団はいったいどこで何をやっていたのか?
            活動内容が全くわからない。
            ただ諜報・偵察・破壊活動だったという記述はある。
            第2次世界大戦前夜のこの頃は、欧州も日本もスパイ活動は全盛だった。
            独ソ戦が始まったのが、1941年6月22日3時15分、
            日米開戦が1941年12月8日午前1時30分、
            金日成が満ソ国境を超えたのが1940年10月、
            この時期から推測すると、ソ連ハバロフスクの第88独立狙撃旅団は、それも全員アジア系で編成された旅団がやることは、もう、これは対日諜報・偵察・破壊活動以外あり得ない。
            資料が少ないが第88独立狙撃旅団の部隊編成や装備はわかっている。
            あまり参考にならないが、以下に転載しておく。

            旅団本部
            旅団長:周保中中佐
            政治委員:張寿籛少佐
            副旅団長:シリンスキー少佐
            参謀長:V.サマルチェンコ少佐
            副参謀長:崔石泉大尉
            政治科 – 政治委員:V.セレギン少佐
            防諜科 – スメルシュ

            (第1独立狙撃大隊)
            大隊長:金日成大尉、
            政治委員:安吉大尉、
            副大隊長:マリツェフ少尉

            第1中隊 – 中隊長:崔賢上尉
            第1小隊 – 小隊長:柳京洙中尉、副小隊長:呉振宇
            第2小隊 –
            第2中隊 – 中隊長:プロフヴァターエフ中尉
            第1小隊 – 小隊長:朴吉南中尉(高麗人)
            第2小隊 – 小隊長:ベルイラン少尉ナナイ

            第2独立狙撃大隊
            大隊長:王效明大尉、
            政治委員:姜信泰大尉、
            副大隊長:アダーモフ少尉
            第3中隊 – 中隊長:彭施魯
            第4中隊 –

            第3独立狙撃大隊

            大隊長:王明貴大尉、
            政治委員:金策、
            副大隊長:サボジニク少尉
            第5中隊 – 中隊長:張光廸、副中隊長:李永鎬上尉
            第1小隊 – 小隊長:許鳳学中尉
            第2小隊 –
            第6中隊 –

            第4独立狙撃大隊
            大隊長:柴世栄大尉(粛清後は姜信泰)、
            政治委員:季青大尉、
            副大隊長:ジレーフフ中尉
            第7中隊 – 中隊長:陶雨峰(のち金光侠上尉)、副中隊長:崔春国中尉
            小隊 – 小隊長:朴洛権
            第8中隊 –
            自動小銃大隊
            無線大隊
            独立迫撃砲中隊
            独立工兵中隊
            独立対戦車銃(PTR)中隊
            独立経済中隊
            独立機関銃小隊
            軍事通訳課程特殊分隊
            各独立狙撃大隊は3個中隊から成り、各中隊は3個小隊から成った。
            装備(1942年9月~1943年7月現在)は、
            小銃x4,312挺、自動小銃x370挺、重機関銃x48挺、軽機関銃x63挺、火砲x21門、対戦車銃x16挺、自動車x23両。

            満州・朝鮮半島地域において偵察・破壊工作活動に従事した。
            その詳細は不明だが、旅団長の周保中は、1940年~1943年の間に、
            計89人の減員(損害)があったことを報告している。

            第2極東戦線の諜報業務に派遣 – 9人
            第1極東戦線の諜報業務に派遣 – 26人
            未帰還 – 24人
            スメルシュに引渡し – 6人
            傷病のため後送 – 15人
            死亡 – 2人
            旅団復帰 – 7人

            一応(第1独立狙撃大隊)
            大隊長:金日成大尉、となっている。

            第88独立狙撃旅団では金日成は朝鮮人の中ではトップの大隊長だったわけだ。

            さて、ここで、金日成について行き詰まってしまった。
            少し時間をかけて調べたいので、
            第2章は、ここで終わりとします。

            今回も朝銀破綻の謎が解けませんでしたが、
            次回、第3章では必ず完結して見せます。
            それでは、今回はここまで・・・(完)

  2. 以前このブログのコメントに”三峡ダムが決壊”とかあって
    google earthで見てみたら、堰堤がこんなに曲がってたら
    さすがに、もう決壊してるんじゃネ?写真の歪みか何かかな?
    と思ってたんですが、今日、再度google earthで三峡ダムを
    見てみてビックリ!ダムだけ写真じゃなくて、堰堤が一直線の
    ”絵”に変わってたんだよね(画像取得日20/6/4の表示)。
    google mapの航空写真と、スマホでのgoogle earthは
    相変わらずグニャグニャです。
    前回見てから、google earth更新してないんだけど、
    何でかな?分かる人教えて下さい。

  3. >八木淳一さん
    >「黙示的」というのですかね

    「ドブ(沼)にはまる」と言うのではないでしょうか。
    膝下ぐらいだと良いのですけど、腰まで嵌ったら抜けられませんよ、周辺に沢山いらっしゃるでしょ。
    腰まで嵌ると脱いでいても判りませんからね、胸まで嵌ったら男か女かも判りません。口から泥を吐くようになったら助かりません。

  4. 七誌さん
    の知見では、最近のアビガンの状況をどうみますか?
    当時の対症療法しかないの救急の状況では、自然治癒なのかアビガンが効いたのか判然としてなかったとも言われていますが。

    1. 消極的にしか使われていないのでよくわからないというのが結論だね。

      そもそもの死亡率があまり高くないので、患者が少ないうちは対症療法でも治癒はするので、アビガンで治癒したのか、自然治癒したのかよくわからない。

      が、それなら何故あんなにレムデシビル推しなんだかよくわからない。品不足で日本に売らないとか言われているのに。

  5. シンシアリーさんの本を読み始めて、このブログを閲覧し始めてから韓国にはまっています。
    韓国男子のYOUTUBEに始まって韓国映画、ドラマ。
    今、李承晩TVを観ています。
    特に新しい知見はないのですが、こういうのを「黙示的」というのですかね? とろいやさん。

    1. 「黙示」というのは、
      「超越的存在:神」が「聖霊や天使」を遣わして、「預言者」に「神レベルじゃないと理解できない世界の秘密」を「神秘的な表現だけど、人間にも分かるように、かみ砕いて」教える事、ですよね。

      「韓国」が「何らかの超越的存在」であれば、聖霊を遣わし、その導きによって「超越者じゃないと本質を理解できないレベルの【韓国の真実】」を、八木さんに教えようとしている、という訳です。

      「神様」にも「韓国」は理解できません。
      何となれば「理解したら負け」である。
      そして「神は負けない」。
      ゆえに「韓国は、神を超えるものである」。
      「韓国」は「超越者」ですね。
      証明終わり。

      これは…「新たな黙示録」が与えられようとしているのか…

      1. そうですね。韓ドラとは関係なく、今、Apocalypse Nowが啓示されようとしていると感じます。いろいろと、、、神秘主義者じゃないんですが、、、

      2. そうかあ、「反日種族主義」を黙示的と感じたのは、「韓国」=「超越者」という前提があったからなんですね。
        (私は何を言ってる。自分でもわからん)

  6. 最近、いつもの連中がこぞって、七誌は視野が狭い、もっと世界を見よ、韓国だけを見るな。と唱えていますよね。

    韓国は、実は日本にとって取るに足らない国なのですよ。だからこそ、日本は韓国に負け続ける。
    取るに足りないゴブリンの被害が大きいのは、ゴブリンが取るに足りないが故に放置されるからなのです。

    韓国側は日本を世界中で貶めるのに最優先、利益以上の異常なリソースを割くが、日本側は、韓国の反日なんて4の次5の次、国を挙げて取り組むことではないのですよ。

    それで韓国は遥かに実力で上の日本に必ず勝つ。

    ようやく韓国の話が真面目にされるようになったのは、韓国の実力が昔に比べて増したからだと言えなくはないですがね。

    結局、韓国に注目するな、もっと世界を見よという人々が、韓国の反日を、やりたい放題を支えているのですよ。

    1. 今日もどうしてかなーおかしいなあーと延々と言いに来る。ちょっとどうにかしてくれませんか「ね?」うんざり。 より:

      視野が狭いんじゃなくて、言ってることが「お・か・し・い」

      1. 今日も肩にちっちゃいゴブリン乗せてどうしてかなーおかしいなあーと延々と言いに来る。ちょっとどうにかしてくれませんか「ね?」うんざり。 より:

        で、結局何を言いたいの?

    2. 「韓国だけを見るな」という意見が、いつのまにか、
      「韓国を見るな」に変換されてる。

      柔らかく言えば、そこが、あなたの「論法の欠陥」。
      分かりやすく言えば「頭がおかしい」。

    3. 視野が狭いというか、なんというか、例をあげるとするなら…

      ・日韓の関係は、2国間だけの関係である。
      ・日本は独立国なので、韓国と断交したければ、日本の判断でそれはできる。

      これ。
      七誌さんは、十数年?韓国との断交を唱え続けてるのに、米国の要素を考えることができなかったのです。つまり視野が狭いのです。というか見るべきものを見ようとしなかったのです。
      日本にとり世界は韓国だけでなかったということだけ。
      当たり前の話です。

      >結局、韓国に注目するな、もっと世界を見よという人々

      へーそんな人いるのですね。
      そこでなら七誌さんは「韓国がー!ゴブリンがー!」ができますね。警笛が鳴らせてよいではないですか。
      もしここで「韓国に注目するな!」という人が多いなら、私からもちゃんといいますのでご心配なく。

      「ここって韓国に注目しているブログだよ」って。

      1. ついでに。
        米国と韓国の関係、重要性、あと中国との関係、北朝鮮問題と
        それらが組み合わさって今の日韓の関係もあるのです。

        何も日本が好きで譲歩や配慮し続けたわけでなく、すべての負の要因が日本にあったわけでないのです。(これを言い訳にしたらダメで、日本もまたきちんとした意思をもって外交をしていかなければならないのです)
        でもそれらが抜けていると、今の情勢をよくわからずに「またもとにもどって日本は韓国に配慮し続けるであろう」「こうなった原因は日本が韓国を軽んじていたため」など、二国間でしかものをみていないことになるのです。

        日本の今の憲法も自衛隊などの国のありかたも、日韓関係も、悲しいくらいに極東のパワーバランスや情勢の影響を受けているのです。
        (あと日韓基本条約などでの日本側の譲歩は、李承晩ラインによる日本人の殺害や拿捕のためであり、韓国を「軽んじていた」からではないのです。)

        というわけで、韓国の失点による米国の定めた枠組みの破壊(への見せかけや挑戦)の結末は、「今日もまた韓国は日本に勝つ」という単純なものではなかったりするのです。
        今後、経済的に日本がバックアップすることになったとしても、それは韓国国民や政府にとっては完全敗北ですし、日本にとっては敗北だったり勝利だったり、まあいろいろなのです。

        1. >今後、経済的に日本がバックアップすることになったとしても、それは韓国国民や政府にとっては完全敗北ですし、日本にとっては敗北だったり勝利だったり、まあいろいろなのです。

          今後、経済的に韓国を日本がバックアップすることになったとしたら、日本の完敗、韓国大勝利じゃん。

          ここらへんミカゲの言うこと、さっぱりわかんないよな。
          誰か説明して?

          1. >さっぱりわかんないよな。

            あ、わからないんだ。
            韓国政府、国民にとり経済破綻やそれに近い状況になって、日本から援助を受けるとなると、それは「敗北」です。
            少なくても韓国側ではそれを勝利としないでしょう。
            わかりやすく言うと日本側が「頭を下げ、お願いをするなら考えなくもない」と言っても、それを受け入れなければならない状況なのです。
            日本の「完敗」とはならないのです。
            そして資金の援助をすることにより、政府は、より日本にとり都合の良い状況を作ることもできますが、そこまでは期待しすぎないほうがいいでしょう。
            とりあえず、何もかもが「日本の負け」とはならないのです。

            少しは考えましょう。

          2. 七誌さん的にわかりやすく言うなら、
            「資金で期間限定の肉の盾を購入する」
            ようなものかな。

            ただこの資金を中国が出すとなると、あるいは本当に日本の負けになるかもしれませんね。
            まあ米国がそんなことさせないでしょうが。

            ここでの勝ちも負けも表裏一体で、韓国が中国圏に急速に飲み込まれるなら、日本の防衛もまた急速に進むし、そうした場合、米中の軍事力が拮抗する前に事が起これば、まだブルーチームは優勢に事を進めれるでしょうし…。

            とにかく、「今日も韓国の勝ち!明日も完全勝利!」などホルホルとしてばかりはいられないのです。

          3. あまり良い案ではないのですが、韓国が経済破綻して
            日本が援助するかわりに「竹島の不法占拠をすぐに止め、日本の領土として認めること」を条件に出すこともまたできるのです。
            で、相手がそれはできないというなら「日本の領土と認めること」は取り下げて、不法占拠は止めさせる、という程度には妥協させられるかもしれません。

            まあとにかく、経済破綻して援助を受ける韓国が「大勝利」するというのは、普通におかしな話なのです。

          4. 七誌さんらしくもない
            韓国人にとって必要なのは、精神勝利

            どれだけ日本がバックアップしても、
            ダメだ
            信じられない謎発想で、自分たちの勝利と言い出す

            朝鮮には、係わらないのが正解だ

          5. 〉「いざという時は、殺されるのが、仕事」という事を指摘しています。

            甲種(絞首)合格だったよ、と苦笑した東條が、それを理解していない訳もあるまい。本当にとろいやはわかってないな。

        2. >李承晩ラインによる日本人の殺害や拿捕のためであり、
          →李承晩ラインによる日本人の殺害や拿捕のため「も」あり、

          クネパパの活躍(用日)も忘れてはならないと思うのです。
          反日教育や個人補償金の使い込みなど、この人も思いっきり日韓関係に禍根を残すようなことをしていますが、私には李承晩などよりはるかにわかりやすい韓国の偉人です。

          1. >李承晩などよりはるかにわかりやすい韓国の偉人です。
            にビビっと反応してしまいました。
            これまでシンさんの本他を通じて戦後の大統領について勉強させてもらいました。李承晩以後から金大中くらいまでがリアルタイムでいろいろ見聞きしていましたが、シンさんの本でなーるほど、うん、うん、などとのんきに構えていましたが、今晩、というか朝までちょっと李承晩辺りの話をググってみました。
            突然ですが「李承晩TV」というのがありますね。なぜ「反日種族主義」の著者サイトが「李承晩」なのか?よーくわかりました。
            李承晩、この人何者ですか、調べれば調べるほど気持ち悪くなってきました。で、その後の大統領は比べれば小物です(キムデジョンは李承晩を追いおとした?学生代表の一人でした—このからみも実は気持ち悪い)。
            李承晩はその経歴とアメリカのバックアップで初代大統領になりました。60歳でした。大統領の任期中、経済対策を含めその後の大統領たちのお手本というかろくなことしかやっていません。縮図です。
            気持ち悪さってどんな? うまく言えないのですが「これでも人か!」というしかありません。主義主張や人格はよくわかりません。あってみればいい人なのかもしれません。だから「気持ち悪い」のです。
            なんて言ったらいいのでしょうか。昭和に入ってからの日本軍部の高官の中のあるタイプ(誤解なきよう、終戦になってころっとヘコヘコした連中ではありません)、例えば石原莞爾、東條英機、辻政信。そして瀬島龍三、この人は関東軍の師団参謀でした。中堅としてアジア太平洋戦線のほとんどの作戦立案に関わっています。それがソ連との交渉役後11年間シベリアに抑留されます。が、帰国後伊藤忠に入社、たった3年で常務になります。その後は財界の「参謀長」として君臨。今にいたるも太平洋戦争突入の経緯についての理解はこの瀬島の言説が大きな影響を与えています。また韓国の軍事政権とも参謀時代の人脈から裏でつながっていたということです(もちろん本当かどうかわかりませんが)。
            李承晩が気持ち悪いのは一つには「無能」ながら多くの犠牲を出した。で、学生に迫られただけでさっさと亡命した。何これ?
            石原莞爾、東條英機、辻政信、瀬島龍三。そして李承晩。共通点はなきに等しい。あるとすれば皆「省みて恥じるところなし」とシラっと言い切るだろうということです(現に言い切っています)。
            一度だけ司馬遼太郎さんが瀬島龍三と対談したことがあります。その対談は活字になっていません。ただしある本の中でわずかに触れています。一言で代弁、紹介すると「これは人間か」ということでした。
            「気持ち悪い」をうまく説明できていません。
            もう一つ、石原莞爾、東條英機、辻政信他は昭和天皇がもっとも嫌っていた連中でした(平成のちの資料公開でわかったことです)。何が悪いとうまく言えないのです。
            だから「気持ち悪い」としか。
            李承晩。ひたすら保身だけに走った人、と言ってしまえれば楽なんですが、違うのです。

          2. 李承晩は袁世凱のような中華圏の梟雄であって、まあ普通です。蒋介石も孫文も毛沢東もまあ似たようなもの。
            彼らは、人を家畜だと認識していると思うくらいでいいかと思います。自分の財産でしかないから、犠牲が出ても平気なのです。彼らは、人を同胞だと認識する日本人の感性からは「人」ではないのです。

            これは、中華圏では権力者に限りません。
            例えば、彼らは「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」で何万人もの愛する人々を奪われたと訴えます。しかし、彼らはその愛する人々の名前すら知らないのです。だから、家畜を何万頭も奪われたと訴えているだけなのです。

            もちろん、彼らも家族のような小さな集団内では我々と同じ「人」です。だから、中華圏の権力者はこう考えます。「その集団の口さえ封じれば(族滅すれば)問題ない」と。

            (昭和天皇は、東條英機については臣として一定の評価をしています。石原や松岡は嫌っています。彼らは梟雄ではなく愛国心もある「人」ですが、自らを過信して臣として分をわきまえず無責任に権力を使ったことで嫌われたと思っています。瀬島龍三あたりは梟雄かもしれません。小物ですが。)

          3. mottonさんの見解に、少し付け加えたいと思います。

            その人たちの「気持ち悪さ」の理由は、
            一つは、mottonさんの言う「人を人と思わない事」です。
            もう一つは、「現実を見ない事」ですね。

            戦前の日本のエリートは「儒教的思考法」に長けた人たちでした。つまり「理念」だけが有って「現実」を見ないのです。「勉強だけ出来るバカ」の典型の一つです。
            軍の上層部がそういう「バカ」ばかりになったのが、日本の敗戦の原因です。朝鮮王朝は言うに及ばず、ですね。

            三つ目は、
            彼らが「西欧的エリート」のつもりでいた、にも関わらず、もっとも重要な「責任感」が無かった事です。
            「ノブレス・オブリージュを弁えないエリート」です。

            この三つを、李承晩は「完璧に備えている」訳です。朝鮮文化500年が西欧文明と出会って生まれた「完璧な化け物・最終形態」です。

            「人を人と見ない」
            「現実を見ない」
            「責任感皆無」
            これだけ揃えば「役満:気持ち悪い大三元」です。
            李承晩は「トリプル役満」でしょうね。

            東条英機は東京裁判のとき、自殺しようとしました。何らかの「責任を取るべき、という意識」が有ったのかも知れませんから、まだ「マシ」なのかも。
            しかし、その「責任感」は「斜め上を向いていた」と思います。「死んでお詫び」じゃ済まない事態だろうに。
            「小三元」ぐらい…ですかね。

          4. >とろいやさん
            本来、梟雄と儒教的思考法は相容れません。儒教を支配の道具と理解している者が梟雄になれるというべきかもしれません。梟雄の中で現実を正しく見ることができた者が天下を取ってきました。
            (あと、文天祥のように儒教的エリートだけれどもバカではなくて絶望的な現実を理解した上で殉じたような人もいます。朝鮮では金弘集などもそういう感じです。)

            李承晩が、アメリカに住んでいたにも関わらず国民国家を理解できず「民に対する」責任感が無いのは、中華的梟雄としての限界です。彼らにとり、国は牧場であり民は家畜ですから。
            しかし、朝鮮末期の王家や閔氏一族は、中華的ながら中華ではない朝鮮の最終形態でした。彼らには、家畜を殖産する意志すらなかったのです。貪ることしか考えていませんでした。

            それに比べて、李承晩が露館播遷や独立協会への弾圧から朝鮮王室に絶望したことは真っ当です。これが、大韓”民”国臨時政府まで繋がります。
            日本に対しても、対等合併の夢を見ていた一進会よりは現実を見ていました。(日本が国民国家であることは理解できていなかったが。)

            ただし、王室からの正統な主権移譲の重要性を理解できずに独裁に走ったのは袁世凱と同じで、「無能」な梟雄であったとは言えるでしょう。(李王家の分家なので、王家の帰国を許すと自らの権威失墜に繋がることを恐れたとも言われますが。)
            ただし、長寿を全うした程度には「有能」です。自分自身に対しては責任感があり現実が見えていたというわけで。(亡命しなければ処刑か暗殺されていたでしょうから。)

          5. mottonさんへ
            なるほど、納得しました。
            李承晩でさえ「王族・両班の最終形態」ではない、と。

            確かに「王族の最終形態」にしては「良く働き」ますね。
            「本物の家格の高い王族」から見れば「あんな者は、しょせん分家の末端のさらに末端」なのでしょう。

            「悪だくみ」も手下にやらせずに「自分でやった」かも知れませんね。
            「自分でやる」なんて、王族にあるまじき、浅ましさ。
            そう言えば、英語も自分でしゃべっていた。
            西洋に毒された哀れな半端者ですね。

            本物の王族なら「息さえも、自分では、しない」。
            委員長陛下も、それを意識して「何でも、妹に言わせている」のかも。
            「息も、自分では、していない」かも。

            おまけ
            ショートコント:金八先生と委員長陛下
            「みんな、ちゃんと覚えておくんだぞ!人間は、自分一人の力だけでは、何にも出来ないんだ!」
            「その通りニダ!ウェ~~ハッハッハッハッハ!」

          6. >東条英機は東京裁判のとき、自殺しようとしました。何らかの「責任を取るべき、という意識」が有ったのかも知れませんから、まだ「マシ」なのかも。
            しかし、その「責任感」は「斜め上を向いていた」と思います。「死んでお詫び」じゃ済まない事態だろうに。

            とろいやは、東京裁判の記録を一回でいいからつぶさに読むべきだと思うのよ。東條ほど、あるいみきちんと責任を理解して取った責任者は、大戦時に居ないから。

          7. そう、独裁者は「良く働く」のです。
            中華皇帝の最終形態は雍正帝です。

          8. 東條英機が自殺しようとしたのは責任の放棄。
            「日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」と言ってしまったのも理解していない証拠。しかし、その発言の修正を迫られて、責任とその取り方を理解した。
            # 人は成長するのだよ。

          9. 七誌さんへ
            例によって、論点がずれてるね。
            「東條が、責任を感じていたであろう事」は、否定していません。

            戦前のいわゆる「能吏」が、「責任の取り方」において「斜め上だ」と批判しているのです。
            (本当に無責任な連中もたくさんいました。腐れ儒教の影響です。そういうのは論外です)
            東條英機は、可哀そうだけど、「責任感が斜め上の人たち」の象徴的立場なのです。
            大戦期に権力の頂点にあった訳ですから。

            本人が東京裁判において、しっかりと論陣を張り、連合軍を批判した事は、賞賛に値します。
            しかし、それなら尚更、裁判が始まる前に自殺しようとしたのは「責任というものの捉え方として、斜め上」でしょ。
            「死んでお詫び、じゃ済まない」のだから、生きられるだけ生きて「連合軍の悪逆」を糾弾しないと、おかしい。
            一つは、そこの矛盾を指摘してるのです。

            そして、酷だけど。
            部下には「戦場で死ね」と言ったとしても、最高司令官は「何が有ろうと、自ら死ぬ事は、許されない」のです。
            「いざという時は、殺されるのが、仕事」という事を指摘しています。

            七誌さんに論点を把握しろ、と言うのも酷だけど。

  7. アメリカのデモ。非常に気になります。
    トランプは軍を出すべきではないと思います。最悪でも州兵でどうにか抑えて欲しい。
    中国が香港武力制圧を本気で考えている証拠ではないかと思えてなりません。
    まずアメリカにデモ隊を軍で抑えた実績を作らせておいて、中共御得意の「おまえだってやってるじゃないか」が炸裂しそうで。
    派手なプロバガンダで相対化、矮小化されてしまいそう。
    渋谷警察のクルド人の件も無関係ではないように思えます。
    あくまで素人の憶測で証拠もなにもなく、妄想と言われてしまいそうですが。

    1. トランプは軍を出して暴動を終止すべき。

      これは自由を守るための戦いではない。暴動が中国やパヨクに利用されるのは変わらない。

      1. 光州事件を知っていますか?
        アメリカのかつてのロス暴動でも今回でもそうですが、軍隊を出してしまうとあとあと禍根が残ります。
        単に犠牲というだけではないのです。
        軍隊の兵士は国と国民を守るために忠誠を誓います。
        派兵されて戦場にいきますから覚悟が入ります。
        州兵でも基本的には同様です。
        これが国内の暴動に出動した時、すぐに鎮圧できますが2つ問題がおきます。
        1つは暴徒から見て、「軍が自分たちに銃を向けた」
        2つは兵士から見て「自国民に銃を向けた」
        です。
        これがモラルハザードのきっかけになります。そこまで行かなくても、トランプが連呼するLaw & Orderを信用できなくなります。
        わかります?
        なお、光州事件では学生と市民が銃をとりました。勇気ある行動なのですが今からみるととても軽率で何も考えていません。騒ぎが大きくなれば米国が介入してくれると思ったという甘すぎる証言もありました。
        そして今当時の学生たち(光州事件に参加したかは別として)が今のムンムンたちです。

        1. 光州事件は、その2つの問題を引き起こして軍事政権の権威を貶め自らが復権するために金大中が意図的に煽動した、と考えています。金大中の背後に北がいた可能性も高く、軍事政権の認識は正しかったのかもしれません。
          しかし、軍を使った結果、軍事政権は致命傷を負いました。

          暴力を伴うデモ(暴動)を煽る勢力の目論見は、掲げる要求を達成することではありません。暴動の鎮圧で流血を強いて、国や軍の権威を貶めその信用を失わせることにあります。 無知で純情な人々を生贄にして。

          日本でも安保闘争で自衛隊を使っていたらどうなっていたか。

      2. >Law & Orderを信用できなくなります。

        Law & Orderを言うならば、暴徒から市民の財産を守るべきだ。
        中華マスゴミと民主党が、トランプ退陣のためだけに暴動を起こして善良な市民の生命財産を脅かしている。民主主義は守られるべきですね。

        香港の自由を守るための闘いとは、根本的に違うのです。
        これを混同させるのが、中華の望み。

    2. 同じく心配です。香港武力制圧を本気で考えている勢力が台頭してきたか。中共は韓国に比べたらはるかにしたたかです。が、だから話し合いはできます。が、やっぱり利用できるものはすべて利用します。中国と付き合うなら、幫になる覚悟で。
      クルド人の件は直接の関係はないと思います。押しかけたのは確かにアメリカのデモが影響しているとは思いますが。いや、はっきりアメリカでのデモの尻馬に載ったのでしょう。
      ん? これがコンバトラーVさんが心配している点かな?
      それなら当たりかもしれません。
      でもこれから日本も移民社会(他国と同じ道にはならないとはいえ)になっていくので、こうしたことが増えていくと思います。日本の警察も頭が痛い。
      東京でも新宿区(特に大久保辺り)では大変そう。学校の先生たち、子供のこと以外でも頑張っています。警察というか派出所レベルですが苦労しています。
      今回デモがおきましたが、あの程度でデモが組織できるとわかったら、これから増えるでしょう。
      あ、今改めてデモ前後の動画を観ました。なーんだ「市民団体」と石川参議院議員も一緒じゃん。
      じっくり調べようとして損した。
      これ、中国というより韓国が利用するレベルのネタですね。
      香港の保安法、中国は香港で「暴動」が起きることを期待しているのでしょう。

      1. >>クルド人の件は直接の関係はないと思います。
        はい。わたしもそう思います。ただ、深読みすると日本でデモ(暴動)を起こした場合にどのようなことが起きるのかをシミュレーションしていたとも考えられないかなと。あくまで可能性の話です。
        どの程度刺激すればデモを発生させることができて、どの程度押せば暴動になるのか、デモ(暴動)が起きた時の政府、警察組織などの動き方、動きの早さ、警察は外国人のデモに対してどのような扱いをするのかなどなど。
        中国は尖閣などで本当にことを起こすのであれば、国防動員法発令で同時、もしくは先に日本国内で大規模デモ~暴動を起こすと思うのです。平たくいえば今回のクルド人の件は練習というわけです。

        >>香港の保安法、中国は香港で「暴動」が起きることを期待しているのでしょう。
        中国はコロナのせいでアメリカの貧困層が鬱屈としていることはもちろんわかっていたと思います。なにか切っ掛けがあれば暴発すると予見していたようにも思えます。
        暴動のトリガーを引いたのが中国だとまでは言いませんが、この情勢を中国が利用しないはずはないと思います。
        アメリカが軍を出して死者が出るようなら、中共の大プロパガンダで「アメリカ版天安門事件」扱いされかねません。
        ※中共は天安門とは口が裂けても言わないでしょうが。

  8. 『肺炎「超過死亡」の把握推進 抗原検査活用法も検討』
    ttps://www.sankei.com/life/news/200522/lif2005220005-n1.html

    やっという感じで、さすがに遅いよね。
    専門外の私でも 3/9 には使えると考えたのに。(当時「超過死亡」という言葉も知らなかった。)
    ttps://sincereleeblog.com/2020/03/22/議論エントリーその6/comment-page-7/#comment-194635

    完全なシステム構築には時間がかかるかもしれないが、死亡者数の速報値でいいから自治体から吸い上げて「超過死亡はありません」と3月から言っていれば、不安を和らげて政府批判を抑えることもできたであろうに。

    次(第2派や新たな感染症)の時に今回の欧米と同じようにならない保証はないので、それまでにシステムが立ち上がっていればいいのだが。
    (2009年新型インフルエンザを総括したものを読むと、今回とよく似ていて進歩が無いことに気づく。まあ人間そんなものかもしれない。)

  9. 滅ぼさなくっちゃいけないのは、中国共産党ではなく、中国人なんですよ。

    中国人がこのままである限り、共産党を滅ぼしてもおんなじような腐敗した政権が出来上がるだけですから。

    で、mottonのような、共産党を倒して日本が中国人を指揮し指導すれば、全て上手く行くって大アジア主義者が出来上がる。

    これは韓国でも同じ。

    日韓併合でもそうだし、日中戦争でもそうだし。
    ゴブリンやオークを飼い馴らそうって、そんなの上手くいきっこないのですよ。

    1. 1「中国共産党政権を倒すべきだ(アメリカが)」
      2「中共を倒した後は、日本が中国人を指導する」
      3「日本が中国を飼いならせば、すべてうまく行く」

      1を言っている人に、勝手に2と3をくっ付けて、くっつけた部分(2と3)を攻撃する。
      それは「ストローマン論法」の一種です。

      肝腎の1の話は、どうするの?

    2. 七誌が言うゴブリン(「ゴブリンスレイヤー」などのゴブリン)は共存不可能だから殲滅(皆殺し)するしかない相手だ。
      以前、七誌に「韓国人を殲滅すればいいのでは」と言ったら「手を汚したくない」と言った。
      自ら手を汚す覚悟もない奴が「○○人を滅ぼす」とか言うんじゃない。

      1. 中国人と韓国人の民族浄化を目指す七誌さん。(ただし汚れるので手は下さない)

        七「あなたの考えはナチズムです」
        「オマエモナー」

        冗談のようで本当の話。

  10. 麦・大麦の芽の粉から金属性異物、大腸菌などが基準値以上で検出された件。どっかで報道してます?
    その商品そのものが売られていたら避けることもできますが、材料としてシリアル等に混ぜられたら見分けることが難しくなりますが…
    最近CMやってる韓国の果実酢『美酢(ミチョ)』とやらも大丈夫なんですかね?

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