講義中に慰安婦というものは売春業で、生活苦あっての仕方ない選択でもあった(という趣旨)の発言をして裁判を受けている、リュ・ソクチュン教授。リュ教授が、「私がやっていた抗議がどんなものだったのか」について書いた記事を紹介します。以下、ニューデイリーの記事です。<<~>>が引用部分となります。
<<・・植民地時代(※併合時代のこと)の説明も、多大な障害にぶつかる。 「植民地時期は収奪と近代化が共存する時期」という筆者の主張は、最初から抵抗に会う。学生たちは、それは当然収奪である、それのどこが近代化なのかと一蹴する。「西欧を勉強して作った日本の近代システムが、私たちに強圧的に移植された契機が植民地だった」とする筆者の説明は、「だから日本に感謝しなければならないというのか」という学生の皮肉にしか繋がらない。
「政治的には、朝鮮が日本の植民地になって差別を受けたことも確かだが、同時に社会文化的には、朝鮮が自ら抜け出せない伝統社会の枷を、日本が外してくれたのではないか」とする筆者の反問に、学生たちは慌てる。しかし、すぐに、日本がそうしたのは、私たちのためのものではなく、日本のためのものであるだけだ、という主張に移る。 「日本のためではあるが、結果的に私たちの近代化に役立ったのではないか?」とする筆者の対応は、結果論という非難を甘受しなければならない。
「学校、工場、刑務所のように、時間を管理する『監視と処罰』のシステムこそ、他ならない『近代』である」というフーコー(Michel Foucault)を引用し、筆者は「日本が朝鮮を近代へと訓育した」と説明を続けていく。他の国の植民地経験とも比較しながら、「植民地とは、全地球的に近代が拡散される過程でも見ることができる」と説明する。
すると、学生たちは、植民地の独立闘争が「反近代闘争」なのかと反問する。筆者は「植民地の独立闘争は、政治的独立のためのもので、社会的、文化的に近代から独立して、伝統に回帰しようという闘争ではない」と付け加える。
「植民地の住民を代弁する国会議員がなく、兵役にもつくことができず、税金だけ負担する矛盾を解決するために、政治的独立が必要なのは正しい。しかし、班常、庶孽(庶子)、賤出(※身分の低い生まれ)、男女などの身分の区別をなくし、すべての人を対象に、通常の教育を実施する時代が、植民地とともにやってきた。それを再び伝統に戻そうというのは、不合理すぎないか?」と再び筆者が反問する。
学生たちは、そうやっていろいろ分けて分析するアプローチを取ると、植民地という差別の総体的な性質を希釈させる問題が生じると対抗する。総体的にアプローチするという学生たちにとって最大の障害は、他の何よりも、経済的次元の問題を議論するときだ。「米を奪い、土地を収奪し、徴用労働を搾取し、慰安婦を強制的に連れて行ったなどの私たちが知っている歴史は、事実に基づいていない「反日種族主義」的思考の産物だという最近の研究成果を紹介すると、学生たちは、最初は全く信じようとしない。
しかし、イ・ヨンフン、キム・ナクニョン、チョン・アンギ、イ・ウヨン、チュ・イクジョンなどの学者が主導した植民地近代化論の研究成果の説明を受け、また、彼らの論文や本を直接読んでから、学生たちは相当な衝撃を受ける。その一方で、少しずつその妥当性を受け入れる。これらの論理と資料がそしっかりしているからである。「日本と朝鮮が単一の市場となり発生した人的・物的交換の結果、米が輸出され、土地が取引され、契約に基づいて労働者が海外に進出したこと」を、学生たちに初めて気づく。
それでも絶対越えられない壁が一つ残っている。他でもない「慰安婦」問題だ。この問題は、特に今日のフェミニズム言説に精通している女子学生たちの抵抗が特に激しい。あらゆる資料を動員し、「慰安婦一人一人の事情が、強制的に連行されて奴隷のような生活をしたと見るのは無理」という説明をどれだけしても、彼らは「構造的な強制」という概念を盾に最後まで抗う。
しかし、構造的強制というのが無かった時代などあるものか。「過去の植民地朝鮮も、今日の発展した大韓民国も、後進国も先進国も、伝統社会も近代社会も、、構造強制がない現実社会が存在するか?」と、筆者は「(※『構造的強制』は)何の説明にもならない、無駄でしかない」と筆者は主張する。この虚像との対立と論争が作り出した事件が、2019年9月17日、延世大事件だ(※リュ教授が告訴された件)・・>>
『全体的に見る』と同じことを言いながらも、教授と学生たちが完全に別の反応を示すのが面白い(面白くないけど)ですね。教授は『全体的に見るべきだ』としながら『植民地』(詳しくは併合ですが)と近代化を別々に見てはいけないと全体像を主張していて、生徒たちは『植民地は悪いものだから、その中から良いものを探そうとしてはいけない』と全体像を主張します。同じ『全体』でも、歴史的・学問的な全体と、儒教的・善悪論的な全体はここまで違うものか、と改めて思い知らされます。そもそも、教授の講義は『社会発展学』講義でした。
言うまでもなく私は教授の言う「全体」に同意する方ですが、教授の意見全てに同意するわけではありません。リュ教授もいわゆる「李承晩こそ国父」派の一人ですが、私は「韓国初代大統領という意味でそういうのなら分かるけど、意味的な国父なら李承晩よりは朴正熙ではないだろうか」と思っています。他にも、講義中のことだから仕方ない気もしますが、併合時代には、朝鮮出身国会議員もいたし、志願兵として軍人にもなれました。
あと、「植民地時代」という言葉も詳しくは違いますが、これでもかなり頑張っている方です。ほとんどの場合は、「日帝強占期」と言います。韓国語の일제강점기(日帝強占期)もグーグル機械翻訳だと『日帝時代』になるので、日本側からはあまり目立たないかも知れませんが、マスコミ記事などもほとんどが日帝強占期と書きます。これは『強制占領(違法)』を強調する表現で、北朝鮮から入ってきた言葉だと言われています。
最後に、教授の無罪判決を願います。
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