「テ」という単語の意味・・なぜ「群れ」と「駄々」が同じ言葉なのか

旧ブログのときにも同じ趣旨を書いた記憶がありますが、とあるきっかけがあって、もう一度綴ってみたくなりました。

韓国には「テ(떼)」という言葉があります。固有語で、漢字表記はありません。ですが、一つの言葉に、全然違う二つの意味があります。一つは『群れ』の意味です。鳥(セ)の群れ(テ)をセテと言ったりします。もう一つは、日本語でいうと「駄々をこねる」の、『駄々』です。なんで駄々と群れが同じ単語なのか。正解を確かめる方法はありませんが、私は、『群れをなして、無茶な内容を要求する(駄々をこねる)』人たちが、昔から多かったからではないか、そう思っています。『群れ』が『駄々』をそれぞれ別の単語にしなくてもいいほど、高い比率で。

こういう意味だと、もっとも端的に「テ」を表す言葉が、多分、「テゴジ」でしょう。ゴジはモノを乞う人の意味です。テゴジは単に「群れをなしたゴジ」という意味でもありますが、実は、もっと恐ろしい(?)意味が隠されています。昔、国に飢饉が流行ったりして経済が苦しくなると、人たちは群れをなして、まだ食べ物が残っている人の家に勝手に入って、食べ物を食べつくしました。すると、その家の人も食べ物が無いから、かれらの群れに加わり、また別の家に勝手に入って、その家の食べ物を食べ尽くします。こうやって、テゴジ部隊のメンバーはどんどん増えていきます。このような『食べつくす』テゴジは、一般の村人たちにおいては、官軍よりも怖い存在だったそうです。いまでも、何かの団体が(例えば旅行中に雨に降られたなどで)思わしくない姿をしていると、比喩的に「まるでテゴジだ」と言われたりします。

 

先の「きっかけ」とは、久しぶりに「テ」に関する寄稿文を読んだからです。「私たちは、少しでも自分と意見が違うと、すぐ路上でデモを行う」、「そうやって『テ』使うと、すべてが通じる社会になってしまった。だから、私たちの意識の中には、『できない』ことが存在しなくなってしまった」、「構成員全員で共に作りあげた制度や原則すらも、自分自身に合わなければ、それを守らなくていいという勝手な考えとして現れる」。これは、2007年8月10日「韓国教育新聞」に、エッセイストソン・イルソプ氏が寄稿した内容です。この寄稿文は、本ブログで18日に紹介したノ・ダニエル(ローダニエル)博士の文について、「本当にそうだ、これは反省しないといけない」と同調する趣旨のもので、ツイッターのほうで教えていただき、読んでみました。

 

このテのことで、韓国では憲法よりもテ法(テボップ)が上位である、という話がよく出ています。特に多かったのが、2008年のろうそく集会のときです。朴槿恵大統領弾劾のものではなく、米国産牛肉関連のデモでした。当時もまた、市民団体が中心になって大勢の人たちがデモを行い、「これぞ民主主義」と騒いでいましたが、当時のマスコミには、デモを問題視する記事も結構ありました。いまでは、市民団体が主導するデモ、特に大規模なデモに対しては、文句を言うことすら容易ではありませんけれども。2008年7月18日ヘラルド経済の記事、「我が国は『法よりテ』のジャングルか」という記事です。ここは、ちょっと引用してみたいと思います。

<<・・非常識な行動、高声不敗(※もっと大きな声を出したほうが勝つ)の後進的意識、まるでジャングルの法則がまかり通る、それが我が国の姿である。 韓国経済研究院は、ろうそく集会による被害額が2兆6000億ウォンに達すると明らかにした。また、デモ現場周辺の商人の生存権が潰されてしまったにもかかわらず、デモを行った側は、自分たちの行動に少しの反省する見せていない。もはや遵法精神が弱いとかのレベルではない。法が嘲笑の対象となってしまった風土だ。これは、上からして原則を無視したからだ。公権力は、厳正な法執行をせず、大統領府だけ守った。 企業主は不法ストライキによる被害を見過ごさないと言っていたが、実際には何もしなかった。「とりあえず道路占拠、不法ストライキをやれば、それでなんとかなる」という誤った認識を、植え付けてしまったのだ。迎合のために妥協してしまったことによる被害は、後になって、どんどん増えていくことであろう・・>>

 

「後(の時代)になって、被害はどんどん増えるだろう」というのも、たしかに2022年になってみると、そのとおりです。というか、いままで韓国で法治がちゃんと機能した時代は無かった気もしますが。特に朴槿恵大統領弾劾などを見ていると、たしかに、何もかも悪化してしまったとしか言いようがありません。弾劾そのものより、それを民主主義だと信じることが、何より大きな問題でありましょうけど。

韓国の『テ』に関する考え方は、なぜか「有能」と繋がります。「泣く子が餅をもうひとつもらえる」という諺からも分かります。「間違っている、定石ではないとわかっていても、それでも規則通りにするのは無能なことだ」、「規則や手続きを無視して過程を短縮させることこそが『有能』である」という文化が、テを『有能なもの』として育ててしまった、という指摘もあります。2017年7月13日、韓国キリスト教連合新聞というメディアに、セロナム教会のオ・ジョンホ牧師が寄稿した文もその一つです。

「私たちの文化は、過程を省略することを『有能』と見なしてきました」、「手続きを省略する力こそ、その人の存在感を浮き彫りにすることだとする風潮が、根付いてしまっています」、「このような文化的、精神的背景で育ったため、私たちは、長時間の苦悩と葛藤、そして試行錯誤によって、民主主義の根を着実に育てようとしません」、「その結果、私たちは、憲法よりテ法をもっと重要とする、奇妙な姿をするようになったのではないでしょうか」。

この韓国社会の『テ』好きは、『線を超えて相手の領域に入ること』を躊躇わないこと、駄々をこねてうまくいかないと人間関係(情)を疑う妙な紐帯関係、パリパリ精神など、多くのネタに関わっています。「規則や手続き」を「条約」「合意」などに置き換えてみると、日韓関係においても重なる部分がある来はします。次の更新は、午後2時~4時ぐらいを考えております。シンシアリーからの大事なお知らせ と、 コメント注意事項(2月17日アップデート)をぜひお読みください。まだまだ現在進行中のトラブルもありますが、ブログの技術的問題は安定し、アクセス数などのデータも回復できました。ありがとうございます。感謝の言葉もございません。

 

 

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