「陣営論理」の恐怖

本文の『心情』は、初稿のときには『真心』になっていました。意味的にあまりにも違和感があって、午後5時あたりに『心情』に変えました。

ソース記事無しの、雑記エントリーです。一つ前のエントリーのソース記事を読んで、どうしても書きたくて書いてみました。日本ではほとんど目にすることがありませんが、韓国では、数々のメディアから「陣営論理」という言葉が毎日のように使われています。自分が属している陣営の論理を重要視するという意味になります。ある程度なら、肯定的な使い方もできるでしょう。『属している』と言い切れるほどの陣営があるからには、例えば選挙などで、自分の陣営が勝つことを願い、相応の応援をすることは、いくらでも建設的な機能があります。民主主義において、保護されるべき自由でもありましょう。

問題は、韓国の陣営論理は、『ウリ(自分側)か、ナム(それ以外)か』で全てを決めてしまう点です。初めて言い出したのが誰なのかは分かりませんが、こう表現します。『メッセージは見ない、メッセンジャーだけを見る』。どれだけ良い内容のメッセージを持ってきた、または発信する人でも、その人(メッセンジャー)がどっち陣営の人間なのかが重要であり、メッセージの内容などどうでもいいという意味です。例えば、「北朝鮮は核開発を中止すべきだ」とデモする右派の人たちがいるとします。いつもは南北経済交流などを強調していた左派の人が、「それはそうだ。むしろ経済交流にも邪魔になる」とし、同意するメッセージを出したとします。でも、右派の人たちはそれを受け入れません。理由は簡単で、『言った人』が左派だからです。

なんでそんなスタンスを取るのか、少なくとも核開発に関しては否定的なことを言っているし、そういう部分だけは意見を共にしてもいいじゃないか、そんなふうに責めると、右派の人たちは決まってこう言います。『いままで、何度騙されたと思ってるんだ』。いわば、長い時間をかけて蓄積されてきた不信社会の現れとも言えるでしょう。ちょっとだけ自分なりの書き方をするなら、韓国の陣営論理は、『何なのか(どっち側なのか)』が、『どうなのか(どういう意見を出しているのか)』を完全に支配しています。韓国で「中道」というものが息苦しくなる一因でもあります。

 

こんな世界では、様々な副作用が起きますが、ラムザイヤー教授のときに特にひどかった件で喩えたいと思います。『あのひとは三菱のお金で出来た枠で教授になったから、言うことは間違っている』とする流れの、あれです。AとBが論争をしていた場合、Aはちゃんと説明をしているにもかかわらず、Bは論争のメインテーマとは関係のないことを持ち出してAは間違っていると主張します。例えば、「Aはちゃんと学校に通っていない。そんな人の言うことは間違っている」などです。こういう場合、明らかな誤謬です。韓国でもこういうのを「情況の誤謬」、「連座の誤謬」、「特殊環境攻撃」などと言い、間違いだとちゃんと分かっています。でも、やめることができません。先の『右派、左派』で考えてみると、右派の言うことに、右派は賛成しないといけません。たとえそれが誤謬でも。誤謬だと分かっていても、分かっていなくても、『右派だから』。同じく、左派は左派だから、ということで、全てを乗り越えて、これらの誤謬に同意します。

どうしても、人に踏み絵を要求することになります。高麗大学校心理学科教授ホ・テギュン氏は、この件を「短期間で、強烈に、人の『心情(原語では真心)』を知りたがる」と表現します。前にも別の教授の主張を『心情』として紹介したことがありますが、ホ・テギュン教授も似たような主張をしており、韓国社会で生きる人たちは、人の行動(実際にどういう行動をするのか)を信じず、その人が何を考えているのか、その『心情』は何なのかを知りたがる、それを知ることこそが情(ジョン、韓国で言う親密な人間関係)であり、心情を知っている関係の人たちが、『ウリ』であるとします。

昔、狭い村で、数少ない人たちとずっと一緒に暮らしていたときは、『言わなくても分かる。私はお前のことなら何でも知っている』が成立するかもしれません。しかし、当たり前ですが、もうそんな時代ではありません。だから、『短期間で、極端な形で、その人の心情を知りたがる』ことになります。いわば、「人間関係のパリパリ(早く早く)現象」です。先の『誤謬をも軽く乗り越えてしまう陣営論理』が成立するのは、そんな『心情』の現れではないか、私はそう見ています。誤謬だと気づいている一部の人たちも、自分の声が出せなくなり、牽制機能が崩れていくわけです。もちろん、そもそも心情といってもまともな意味でのものではありませんが。

言うまでもなく、これは自由民主主義ではあってはならない現象です。陣営論理だろうと何だろうと、結局は法治があって、客観的な基準があって、その上で成立するものでなければ、民主主義とは呼べないからです。民主主義は、「二つの全体主義の同居」を意味するものではないからです。本エントリーにコメントをされる方、またはコメントを読まれる方は、こちらのコメントページをご利用ください

 

 

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