日本は、理性の国

久しぶりの「じゃぱんらいふ」エントリーです。

韓国人が持っている日本人のイメージに、「情(ジョン)が無い」というのがあります。

韓国で情が無いというのは、「冷たい」とほぼ同じ意味です。すなわち、「日本人は情が無い」は、「日本人は親切に見えるけど、決して心を開かない。本当は凄く冷たい人たちだ。韓国人は情が深い(情に厚い)。だから心を開き、温かい」・・そんな意味になります。

言うまでもなく、これは、韓国人の日本観によくある、「そうでなければならない」の一つにすぎません。本当の日本がどうなのかではなく、そういうことにしないといけない、という日本観です。「ソウルに行ってきた人と、行ってない人が喧嘩をすると、行ってない人のほうが勝つ」・・韓国で勝ち負けを決めるのは、「本当はどうなのか」ではありません。大勢の人たちが、いまも本気でそう信じています。いえ信じなければならないことになっています。「日本人は情が無い」、「日本人は冷たい」、と。

 

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1990年7月8日の東亜日報には、韓国社会の縁故主義を警戒すべきだとする、漢陽大学の金容雲(キム・ヨンウン)教授の短い寄稿文が載っています。

同校出身、故郷出身、親族、そんなものを優先して「ウリ」たる集団を作る韓国社会の特性は、その「情」が原因だというのです。小さな農村ではそういう感情が「情」として機能するかもしれないけど、現代社会で、国家がそんな感情を頼りにしていると、うまくまわるはずがないと、教授は指摘しています。

で、その寄稿文のタイトルが、これです。「情と理性の適切な調和が必要だ」。

普通、AとBの適切な調和という文章の構造からすると、AとBは反対する概念のものとなります。じゃ、キム教授は、意識的であれ、無意識的であれ、情は理性の反対概念であると書きたかったのでしょうか。

理性を「客観性」に置き換えると、その意味合いはさらに明瞭なものとなります。多少無理があるとは思いますが、「理性」を「遵法性(自分の考えより社会の規則を優先する)」に置き換えると、それは本ブログで今まで書いて来た内容と一致すると言えましょう。

韓国人の「情」は、決してタダではありません。それは、「ウリ」を作るための縛りであり、かならず対価を求められることになります。情より理性を重視する姿勢を示すと、「裏切り者」と言われます。それが、本ブログの「情」観です。

 

もしかして、韓国人が日本のことを「情が無い」と思う理由は、日本が「理性の国」だから、ではないでしょうか。

 

理性・・物事の道理を考え、それに合った選択を下すことが出来る力。少なくとも、現代社会を生きる社会人の側面からだと、理性は遵法性、客観性、またはその2つに準じた「判断力」などと似たような意味になるでしょう。

日本人は「情が無い」というのは、嘘です。まだ日本滞在8ヶ月の私ですが、それぐらいわかります。しかし、韓国人みたいに何も考えず「今日からウリ!」となることはありません。そこには、妙な距離感があります。決して悪い意味ではなく、まるで道路の車線みたいに、「区別されているからこそ安心できる」程よい距離感が、そこにあります。

 

そんな関係を、韓国人は「冷たい」と言っているのでしょうか。私なら、こう言います。「安心感がある」と。ある意味、「楽できる」と言ってもいいかもしれません。距離感といっても、「礼儀」という名の理性によって支えられているからです。

その距離感が少しずつ弱くなり、「友人」と呼ばれるには、もっともっと時間が必要でありましょう。それは当然のことです。そんな友人を、生涯、何人作ることができるのでしょうか。

和をもって尊しとなす・・周りに尊しを示しながら生きれば、時間はかかれど、そんな人間関係を得ることができるでしょう。

 

まだうまく書けないけど、韓国が「恨と情」を大事にすることで人間関係を築く国なら、日本は「和と理性」を大事にする人間関係の国である、と。

もう少しまとめ、いつか文にできれば・・と、思う今日この頃であります。

 

 

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