ゴミがないからゴミが目立つ

韓国にいた時、街を歩いているといつの間にか感じていた、数々の不愉快さ。

それらは、日本に来てからほとんど無くなりました。

不愉快さの存在そのものがゼロになったわけではなく、それらの不愉快を「社会一般の(全般的な)問題」ではなく、「個人の問題」として見るようになったからです。

一つの簡単な例えとして、道に捨ててあるゴミのことがあります。

韓国にいたときには、日本に観光に来ると「街がすごく綺麗。ゴミが無い」と思っていました。比べる対象が韓国と日本だったわけですから。

でも、暮らすようになってから、見方も変わりました。

 

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普通に歩いていると、缶とかペットボトルとか、ゴミが目立ちます。歩道にある花壇のような場所が、特にそうですね。

でも、それは道にゴミが「多い」から目立つのではありません。ゴミが「ほとんど無い」からこそ、一つや二つ、ぽつんと道に落ちてあるゴミが、すげぇ目立ちます。

筋肉モリモリの裸男(金髪ロングウェーブ)が道の真中で鉄人28号のポーズを取っているような、そんなレベルで目立ちます。

拾って捨てようとしても、ゴミ箱とかそう無いし、困ったものです。

今日も、諸般の要素を総合的に勘案してコーヒーを買いに出かけてきましたが、同じ経験をしました。花壇にペットボトルが捨ててあり、「こいつ、目立つ・・!」と。

かなり大勢の人が通う広い道。ゴミを捨てるのは多分1人か2人。大人なのか、日本人なのか、ここの住民なのかどうかもわかりません。そう、「社会一般」の問題ではなく、「個人」の問題となります。

別に日本とて完全無欠の国であるわけでもないし、「大したことではない」と言ってしまえば本当にそれだけで済む話ではありますが、「向上心」を人生のメインテーマにしているシンシアリーだけあって、もう少し何とかならないかと思っています。

ゴミの種類にもよるけど(どうしても拾いたくないのは嫌ですが)、うちのマンションではペットボトルと缶をそれぞれ区別し、24時間出せるようになっているので、とりあえず外出の時にビニール袋と手袋を一つ準備して、ペットボトルと空き缶が目に入ったら、拾って持ち帰ろうかな、と考えてみました。

社会一般の問題なら、個人1人で中和できる分には限界がありますが、個人の問題なら、個人1人の力でもかなりの部分を中和できるのでは?

そう思う今日この頃であります。

韓国の問題点を扱う記事などで「日本もー」という意見をよく耳にしますし、そういう意見も大事ではありますがが、その場合には「社会一般の問題か、個人の問題か」を考えてみるのも、また役に立つかもしれません。

 

 

 

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