土日ということもあるし、今日は「じゃぱんらいふ」です。
私がちゃんと読んだのはPHP文庫版(訳・岬龍一郎)ですが、「BUSHIDO・The Soul of Japan(武士道)」の最初の部分、「第一版の初丈」を読んでみると、こんな内容が書いてあります。
(ここから「続きを読む」の後になります)
著者の新渡戸稲造さんがベルギーの有名な法学者の家に招待され、宗教について話し合うことになりました。新渡戸さんは何気に、日本はこれといって宗教教育は行っていませんよ、という趣旨を話しましたが、相手の法学者はびっくりしながらこう問い直します。『宗教教育がない!それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか』。
その学者さんが私に聞いたわけじゃないけど(笑)、いまはうっすらと、それがなぜだかわかる気もします。
キリスト教徒だった時、私は「神は人の中にいる」という言葉がずっと疑問でした。中ではなく、となりに降臨するのではないか。そう思っていました。
じゃ、他の人の中にいる神はどうなるのか。他人と私の意見が違う時には、神はどうするのだろう、と。でも、人がそれぞれ同じ意見ばかり出すわけにもいかないし、人の「中」にいると、神は困るのではないか。神と人間の関係は、「神 対 人間」の一対一の関係ではなく、「神 対 社会(人が他の人と一緒に暮らすために作り上げた総合的システム)」の関係で見るべきではないのか。どれだけ偉い神様でも、人間一人一人が自己主張しだすと、それをコントロールできるはずがない。大勢の人間が「社会」というシステムを作り、その過程で、社会と神がお互いを受け入れることで、神は人間の『中』ではなく人間の『隣』に共存する形で降臨できるのではないか。そんなことを、当時の私は考えていました。そのせいで、教会の人に「異端(インチキ流派)みたいなこと言うな」と言われたこともありますw
でも、すぐ考えるのをやめました。「神」ではなく教会の「人」たちといろいろトラブルがあって、キリスト教をやめたからです。どれだけ優れた神様の教えでも、所詮、それを人々に伝えるのは神ではなく「人」ですから・・
日本に来て、あの時に私が考えていた神と人間の関係が、皮肉なことに、キリスト教国でもない日本に存在している気がしました。
日本では、私が観光で神社を訪れる時に考えていたこと・・「尊重」するにはどうすればいいのかと気にしていたことを、神社の外、街で、普通に人が人に対して行っています。まるで、日本は国中が神社です。
尊重と言っても難しいことではなく・・・小学校の時、授業中に先生が教室を歩きながら、なぜか私の隣に立っている時があります。すると、その時「あ、僕って何か悪い子としてないかな」と少し緊張します。あの感覚に似ている・・・気がします。
その感覚の中を生きる楽しさに、毎日夢中です。次の本(日本滞在記みたいななにか)も、そんなイメージで書けたら・・と願っています。
最後に、レナのクリスマス背景が完成しました。クリスマスにはレナスレでも・・
♨ 著書関連のお知らせ ♨
・シンシアリー+扶桑社の10冊目となる「なぜ日本のご飯は美味しいのか」が発売中です!
・9冊目、「韓国人による末韓論(扶桑社新書)」も発売中です!
・他にも韓国の反日思想に対する考察をまとめたシリーズがございます。それぞれ、重点を置いた部分が違います。今までのシンシアリーの拙著については、書籍紹介ページをご覧ください。