「なんなのか」と「どうなのか」

何ヶ月か前のことですが、テレビ朝日の某今でしょ!な番組で、神社とお寺での作法と、その差などを扱いました。

その番組の中に、「ペットなど、人でない存在を家族として神社に連れてきて、家族に施す儀式を一緒に授かる人たちも多くなっている」という内容がありました。

日本の神様は、「それが『何』なのか」ではなく、「それが『どう』なのか」を大事にしてくれるのでしょうか。単に人形や犬だという、それが「何なのか」より、人に家族だと思われていること、すなわちそれらが「どうなのか」を大事にしてくれるのでしょうか。

 

(ここから「続きを読む」の後になります)

儒教では、「なんなのか」が大事です。人だろうと物だろうと、生まれつきで決まった貴賎が変わることは無いとします。善は善で、悪は悪です。善が上、悪が下。反日思想そっくりです。どれだけ謝罪しても無駄だという理屈にも似ています。「どうなのか」などどうでもいいからです。韓国(善)からすると、「日本が『日本(悪)だから』」ダメなのです。その関係は変わりません。

 

キリスト教はそれほどではないにせよ、伝統的に、神と人間の関係は特別なもので、天国にも人間だけが行けるとしています。一九六三年から一九七八まで法王だったパウルス六世が、愛する犬の死に悲しんでいる少年を慰めるために「天国は全ての被造物に開かれている・・再びその犬に会えるだろう」と話したことがあります。

悲しんでいる少年に優しい言葉を渡しただけなのに、大人げない大人たちが食らいつきました。一部では「法王は、イエスをキリストとして迎え入れ罪を許してもらった(=天国に行けた)犬を知っていらっしゃるそうだ」とパウルス六世を非難しました。

「どれだけ愛されていても、それは犬だから」と見るか、「それは犬だけど、どれだけ愛されていたか」と見るか。生きてない存在に対しても、それは成立するのか。少なくとも私が知っている日本では、それが成立しているようです。

どこか、オタク文化にも通じているような気がします。いまの秋葉原は、必然の産物なのでしょうか?(笑

 

 

 著書関連のお知らせ ♨

 

・シンシアリー+扶桑社の10冊目となる「なぜ日本のご飯は美味しいのか」が発売中です!

・9冊目、「韓国人による末韓論(扶桑社新書)」も発売中です!

・他にも韓国の反日思想に対する考察をまとめたシリーズがございます。それぞれ、重点を置いた部分が違います。今までのシンシアリーの拙著については、書籍紹介ページをご覧ください。

162+

© 2020 シンシアリーのブログ Powered by AFFINGER5