物に心が宿るのか

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なんか、ネタが無くて雑談ばかり続いています。

日本の古い記録、昔話、逸話、小説、アニメ、映画、様々な文や創作作品にて、『物』に心が宿るという設定が頻繁に登場します。付喪神のような話でなくても、例えば機械で出来たロボットに心があるという話など、様々な物語に、そんな設定が登場します。

でも、そんなことに、一々「具体的な設定」を作ったりはしません。なぜかというと、詳しく言わなくても、読者が、観客が、社会そのものが、ある程度は理解するからです。

韓国には、『物にも心が宿る』という考えがありません。韓国だけでなく、日本以外の国では、あまり一般的ではないと聞いています。

 

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私が大学生だった頃、日本の某ロボットアニメシリーズが韓国でも放送されました。日本では「勇者ロボ」シリーズと呼ばれています。そのシリーズは韓国でも結構いい時間帯に放送され、韓国メーカーによる独自のおもちゃが発売されたり、かなり人気でした。秋夕(韓国のお盆)だったかソル(旧暦の元日)だったかは詳しく覚えていませんが、あの日は連休で、長男の兄の家に、家族が集まっていました。親がいなくなってから家族が集まることはそうなかったので、あの日は私の問題、卒業して大学に残るのか歯科医院を始めるのかも含めて、いろんなことを話し合いました。

夕食前の時間帯になって、大人たちの話し合いも終わり、小学生だった甥っ子たちが、テレビをつけてあの勇者ロボシリーズを見ました。うろ覚えですが、主人公のロボットは警察で、どうやら前回のエピソードで悪者のロボットに破れ、大怪我をしたようです。そして、そのロボットのことで、「人間的な部分を消せばもっと強くなる」とする外国人の女の子と、「そんなことをしたら、ロボットの心や絆も消えてしまうから絶対にダメだ」とする日本人の男の子(韓国では韓国人ということになっていましたが)が喧嘩をしていました。結果は、人間的な側面、仲間との絆、言わば心を残したほうが、実はずっと強いという展開になり、見事、勇者ロボが勝利します。日本のアニメにしては、珍しい内容でもないでしょう。

 

ですが、それを見ていた甥っ子の一人が、「ロボットなのに心があるなんてありえない」と言うのです。その子も、キリスト教会に通っていたから、でしょうか。私としては意外だったので、「意外だな、なんでそう思う?」と聞くと、甥っ子は、困った顔で、「だって、そうでしょう?」と。もうひとりの子も、主人公が勝ったからどうでもいいけど、生きているわけではないから心があるのは変だ、というのです。あのときはまだ二人ともかわいかったので、困らせるのも悪いと思って、それ以上は聞きませんでした。でも、少なくとも子供がアニメを見ながら「機械だから心は無い」と思うのは、ちょっと切ないと思いました。

詳しく日付は覚えていませんが、それから随分時間が経って、旧ブログで紹介した内容ですが、韓国の某駅で、人を乗せていないままプラットフォームに入る特急列車に、掃除担当の女性が挨拶をしたことで、その特急会社が袋叩きにされたことがあります。多分、女性の方は、特急列車が来ると挨拶をしてきたので、ついそうしたのでしょう。でも、それを見た誰かが写真を撮り、「客も乗っていないいのに、『物』に挨拶させるひどい会社だ」としながらネットで問題を提起、ついには会社側が謝罪する結果となりました。自分のものには「事物尊称」を強要する社会の、もう一つの断面図でもあります。この話を旧ブログで紹介しながらも、ずいぶん切なかったことを覚えています。

 

朝鮮半島にも「物」が化けて命を得るという考えはありました。主に、昔から伝わる昔話などによく出てきます。特に、「木」を神聖なものとする考え、木にシン(神と書きますが、何かの霊の類のことです)が宿るという信仰は各地にありました。でも、今は、そういう考え方をもっている人は、そういません。

朝鮮時代、朱子学の普及で、先祖への親孝行としての側面以外に、霊や魂についてあまり考えなくなったこと。戦後のキリスト教の普及で、『人間だけが霊的な存在だ』とする考えが広まったこと。社会が物質万能主義に囚われすぎたこと。とんでもない金額を要求するなど、民俗信仰のイメージを悪くする『巫俗』文化の暴走。そして、1890年代の東学運動などから始まった人間中心思想の『人間こそが天である(だからもっと大事にしてくれぃ)』思想が、今でも「伝統宗教」を名乗っている(本当は伝統と呼べるほど昔からあったわけではありません)ことなどなど、理由はいくつもあります。

 

1960年代、日本のアニメ「鉄腕アトム」が米国でヒットできた理由の一つに、「元人間でもないのに心を持っている(ように見える)」点があります。1960年代は、米国でのキリスト教の「縛り」が、随分弱くなった時期でもあります。今と比べると、それはもう想像もできないほどキリスト教『色』が強く、日曜に教会に行って礼拝を捧げないだけで街の嫌われ者になる、そんな時代でしたが、それでも、それでもその前よりは、社会の多様性が認められるようになりました。国民が米国の対外政策に根本的な疑問を抱くようになったベトナム戦争、人種差別反対運動(公民権運動)など、米国社会の『保守性』が揺らぎました。もちろん、多くの世帯に普及していた「テレビ」もまた、その流れを加速させました。映画などカルチャー方面も、その流れから例外ではありませんでした。『十戒』や『ベン・ハー』など、キリスト教関連映画の圧倒的大ヒットが止まったのも、1960年代からです。

キリスト教では、「神様と同じ姿で作られた」人間だけが他の存在と違い、神様との霊的な関係を維持できるとします。物に心が宿るとするのは、実はキリスト教的にはかなりマズイ設定です。

ロボット関連の法律に従い人間のために戦いながらも、人間のやり方に疑問を抱くアトムの姿は、当時の米国のヒーローファンたちにとって、まさにカルチャー・ショックそのものでした。他にもアトムのメッセージ性はかなり強力で、アニメの一部のエピソードは、米国では放送されませんでした。アトムのアニメがアメリカで放送された六年後に、同じ米国で、人間と区別できないほどのロボットに関する話を書いた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という本が発売されたのは、果たしてアトムと無関係なのでしょうか。「ブレードランナー」の原作のことです。

ちなみに、このテーマでは1940年のディズニーアニメ「ピノキオ」のほうが先輩になりますが、あれ、公開当時は社会的にあまり受け入れられず、破産寸前まで追い込まれたと聞きます。

 

 

 

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