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25日は、桜を見に行ってきます。ただ、家の近くを何か所か回ってみるつもりで、ブログに写真は載せることが出来ないと思います。午後遅くからの更新になりますので、前もってお知らせ致します。
最近、雑談ばかりだったけど、多くのコメント、ありがとうございます。実は、本の原稿にするために書いたものの草稿ですが、相応の自信を持つ事ができました。
今書いている本には、一部だけですが、(日本のことで)神国という言葉が出てきます。『神国』という単語にはいくつか意味がありますが、単に、神々が宿る国という意味になります。「『宿』る」だけに、ホテルなどに喩えて書いた部分もあり、今まで書いた原稿の中で、一番楽しく書くことができました。まだ終わってないけど。
(ここから「続きを読む」の後になります)
外国では、日本の神道(Shintoism)を「宗教でない宗教」だとします。外国人の目には日本人のほとんどが神道を信じている、その教えを守っているように見えるのに、いざ日本人の中に「うちの宗教は神道です」と言う人はそういない、というのです。韓国にも、儒教思想というものがあって、外国から同じことを言われます。「どうみても儒教の教義を守っているのに、自分の宗教を儒教だと言う人はそういない」、と。
あくまで韓国で私が経験したことに限ってのことですが(そうでないならこんなふうに書けません)、人間中心の儒教と、神中心のキリスト教ですが、共通する部分もあるにはあります。儒教もキリスト教も、とにかく「敬」を示せ、というのは同じです。徳(身分は生まれ持った徳で決まるものだとします)が高い人に敬の意を示せ、自分が徳の低い人間だと認めろ。罪を赦してくれる神様に敬の意を示せ、自分は罪人だと認めろ、と。
それに、『人が正しい生き方をする』には他の方法が無く、ある意味、とても一方通行です。身分だから諦めろ、または「イエスを介さないと救援など無い」などなど。逆の方向には、『敬』を示しても意味がない、究極的には何も変わらないことになっています。むしろ、双方向性を望むことは、世の中の理に反することなのだ、というニュアンスすら感じられます。
私は、韓国で、ざっと四十年間、実生活のの中で、これら二つの思想を経験しました。そして、いまハッキリ覚えているのは、「疲れた」という感覚だけです。
いまだ私が「イエスは素敵な方だった」と思っていながらも、キリスト教徒をギブアップしたのは、神に疲れたわけではありません。神の名で愛を語りながら、矛盾した言動しか示さなかった、教会の「人」たちに失望し、疲れたからです。儒教に対しても、いまでは「韓国の社会悪」としか思っていません。相手を見下すことで人より上になれると信じる人たちを量産してしまったからです。孔子のせいでも徳のせいでもありません。ただ、人のせいで嫌になりました。疲れました。
真の神国とは、神が人間との共存を受け入れ、人間が神との共存を受け入れた国のことではないでしょうか。人が人に、人が神に、神が人に、敬を示してくれる国。それが神国です。私は、その関係を支える大きな柱の一つこそが、日本語だと思っています。ふっと感じた、この国の一員になるために自分自身に必要なもの。在留資格や帰化を「文章」だとするなら、「行間」にあたいするものは何か。書いてないからといって何かを見落としていないか、そんな本です。
多少不安なところもありましたが、最近続いた雑談のコメント欄を読んで、安心できました。もう追い込みに入ります。桜を見てから。
それでは (・∀・)ノ
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