1922年東亜日報、端島の朝鮮人労働者の証言・・「数百ウォン貯めて故郷に帰る人も多いです」

1922年東亜日報に、長崎周辺、炭鉱などで働いていた朝鮮人たちを訪れた記事があります。記事では「朝鮮人村」としています。その中には、端島(軍艦島)で働いていた朝鮮人労働者の証言も載っています。ここで働くことで生活が成り立っているとか、数百ウォン貯めて故郷に帰る人も多いとか、そんな内容です。ちなみに、当時のウォンの価値ですが、1945年にお米1ソム(144kg)が約100ウォンだったそうです(通貨価値の部分だけ、ソースは2015年のノーカットニュースです。外部リンクにご注意を)。

 

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1922年6月8日東亜日報「長崎付近の朝鮮村」

朝鮮人労働者が五百人も仕えるという三菱炭鉱会社の状況を見るため、記者は長崎市外の高島村に向かった。朝鮮里数で五十里(※朝鮮では1里が約400m)ぐらい船で行くと、樹木が多い島に炭鉱の煙突から煙が上がるのが見えてくる。ここでは朝鮮人が約170人も暮らしており、全員が会社の家で暮らしているため家の心配も無く、1日でうまくやれば2ウォンの給料がもらえ、食事も会社が実費40銭だけで用意してくれるし服も労働者ということもあって大してお金がかからず、本人さえちゃんとやればお金を貯めることができる。ここに来て2~3年で500~600ウォンのお金を貯めて故郷に帰った人もいるという。労働者の中、妻子を連れてきた人は、その息子たちが今はシムサン(※尋常)小学校に入学したといい、成績がすごく良く、語学に才能があり、まだ幼いのに日本語を流暢に話し、お母さんに通訳をすると言う。

 

 

高島村からもう少し行くと、二子島村というところがあり、ここでは朝鮮人坑夫が200人近くもいて、生活の状態は先の高島村と大して差が無い。そこから朝鮮里数で10里ぐらいさらに進めば、1万坪ぐらいの小さな島があり、そこを端島と言う。ここにも朝鮮人180人ぐらいが暮らしており、昼には深さが100ギル(※100길、約240~300m)にはなる石炭の穴の中に入って仕事をし、夜には会社の家で寝る。中には別に家族と一緒に暮らしている労働者もいて、ここには他のところでは見ることが出来なかった、朝鮮のチマチョゴリを着た朝鮮人の奥さんがあっちこっちでご飯を炊いている。

 

 

100尺(※約300m)の深い土穴に入って命をかけて石炭を取り、夜にはただ波の音だけが寂しく聞こえてくる中、他郷暮らしの彼らの感想はいかがなものだろうか。その中の、ある人の話を聞いてみたところ、『他郷暮らしは退屈なものだと言うのに、私たちには年月の流れがあまりにも速すぎます。朝鮮も多分、ずいぶんと変わっていることでしょう。学校がたくさん作られたそうですね?学生たちが増えたそうですね?度々、故郷の親友からの手紙を読むと、本当に嬉しい知らせが多いです。ここでは私が頑張って働けば食べる心配は無いし、朝鮮にいたときには警察の虐待に耐えられなかったけど、ここはそんなことありません。子供はみんな尋常小学校に入学させました。日本語はうまいのに朝鮮語は出来なくて、家にいるときには朝鮮語を使うようにしています。石炭の穴での仕事をする人は給料で2ウォンをもらい、外で働く人は1ウォン20銭か30銭しかもらえません。ここに来た人は、慶尚北道の人がもっとも多く、その次が全羅南・北道、次が忠清道で、京畿道の人はすごく少ないです。ここでは数百ウォンのお金を貯めると、故郷に帰る人が多いです』という。いくら生活が苦しくてここに来たとは言え、昼は土窟の中で働き、夜は海の波の音だけ切なく聞こえてくる中、ふっと過ぎた過去を思い出す彼らの顔は、何とも言えない寂しさを帯びていた>

記事の内容が、この前お紹介した「強制徴用被害者の写真、なぜか笑顔ばかり」と一致すると思ったのは、私だけでしょうか。

 

 

 

 

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