ブログだけでなく拙著にも同じ趣旨を書いた記憶がありますが、韓国にも『民族性の改善』をテーマにした研究は結構ありました。疾患としての鬱火病考察、恨(ハン)の副作用、集団利己主義またはウリイズムと呼ばれる「ウリとナム」現象、上下関係への執着、過渡な唯物論的思考、などなどです。特に故チェ・サンジン教授の論文は印象的でした。でも、最近はそういうのはネットメディアまたはローカルメディアでもないと、見つけるのが難しくなりました。「民族」「韓国人」などの言葉が、聖域化されたからです。そんな中、国民日報に、久しぶりに「韓国人の~~なところは早く直したほうがいい」と受け止めることも出来る、そんな寄稿文が載りましたので、雑談カテゴリーとして紹介致します。
<最近広く使われる新造語に、「ネロナンブル(私がやればロマンス、他人がやれば不倫)」がある。その白眉はチョ・グク氏の語録だろうが、彼だけでなく、言葉と行動が一致しない公人が大幅に増えたようだ。
自分の子が通った特別目的高校を廃止しようとする教育監(≒教育行政の長が、特別目的高校を公正ではないと廃止しようとしたけど、実はその人の子も通っていた)、息子が志願服務した在韓米軍の撤退を主張した教授、留学中の自分の子は普通に食べているアメリカ牛肉の輸入に反対した議員、自分が有罪判決を下した偽装転入を3回もした最高裁判官は、まだマシなほうだ。海外旅行自制を要請してきた長官の配偶者の海外遊覧もまだ甘い。
判事と大工のハンマーの価値は同じでないとダメだと話していたコメディアンが、超高額の授業料の受け取る。韓国初のセクハラ訴訟で有名になった自治体の首長は「me too疑惑」で訴えられた。生計のために仕方なく軍事政権に従うしかなかったと話す有力者は、もっと切迫した状況にいたかもしれない親日人士たちの墓を破墓しようと叫んでいる。息子に贈与したマンションの住宅保証金を大幅に上げた数日後、保証金引き上げの上限を設定した法を発議した国会議員もいる。
哲学者の小倉紀蔵 京都大教授は、ソウル大学で修士・博士課程を終えた知韓派だ。彼は著書「韓国は一つの哲学である」で、韓国人は道徳指向だが、道徳的ではないと指摘した。朱子学の根が深い韓国人は、理念と道徳を代弁する絶対規範である「理(リ)」を信奉する。現実と欲望を集約した「気(ギ)」と対称される「リ」にこだわり過ぎで、現実と理想、欲望と道徳の乖離が大きくなった。
自己救済策として、私たちはそのような乖離を、無視・回避したり、さらには合理化したりする。他人の言動は道徳的に還元して冷静に評価するが、自分がそれにふさわしく生きることは殆ど無い。心理学の「認知的不協和」のような二重性である。
チェ・ジンソク西江大教授は、このような二重性は、私たち自身で近代を乗り越えることが出来なかった依存関係と集団思考から起きたと見ている。私たちは、輸入された理論を大事にして、一度受け入れた信念を固守する。朱子学をより徹底的に守り、誰がより本格的で、誰がもっと正統なのか、理念だけを崇拝する。自分の理念に合えば「善」で、それ以外は「悪」として片付けるから、現実と理念の隙間が広がってしまったのだ。この道徳指向性は、「衛正斥邪」流の教祖的な歴史意識にも投影されている。
ヤン・スンテ梨花女子大学教授によると、朝鮮 – 日本 – 大韓民国につながった国体の変革過程の不都合な真実は、粉飾・蔑視すべき対象ではない。克服の対象である。特に、偽善的な道徳主義と偏狭な民族主義が一つになって派生した、敵と同志の二分法で歴史をわけてはならない。チェ・ジンソク教授は、日本植民地時代には同質感を「種族」から見つけたが、今は種族 – 民族主義を破り、市民 – 民族主義に生まれ変わるべきだという。
土着倭寇がどうとか竹槍歌がどうとかと種族を組み分けしたところで、ナチスや紅衛兵が発散していた集団狂気から抜け出すのは難しい。「わが民族だけで」や「主体」、人類普遍の基準ではない「北朝鮮の観点」からモノを見ようとする内在的アプローチに対する、感傷的な親密さにも、同じ危険が潜んでいる・・(ソース記事:国民日報、パク・ジェワン成均館大学名誉教授)>
併合時代、臨時政府の民族主義を「種族主義(原始的な民族主義)」としたり、「朝鮮 – 日本 – 大韓民国につながった不都合な真実(韓国では朝鮮→臨時政府→大韓民国とします)」としたり、聖域化されてしまった民族性の部分にまで「道徳指向」と「道徳」を分けて考えたり、いろいろと、最近の記事にしては異例です。
しかし、パク教授の本寄稿文だけでなく、こういう話になると、いつも「朱子学が根本だ」が前提になってしまいます。個人的に、それはどうかな、と疑問です。もちろん、儒教思想が韓国人の精神世界に大きな影響力を持っているのは間違いないでしょう。でも、儒教思想が入ってくる前から朝鮮半島は存在していました。それに、「他人には徹底的に完璧に近い基準(道徳)を要求する。でも、様々な名分と合理化で、自分自身にはその基準を適用しようとしない」こと自体、朱子学的に見ても問題があるのではないでしょうか。朱子学が人々を歪めたというより、人々が朱子学の現地化に失敗して、または朱子学の良からぬ部分だけが『必要とされ』、その結果、ネロナンブルという怪物が生まれてしまったのではないでしょうか。
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