日本と韓国の、社会の一般的な観念・・ある日、雛人形店で感じたこと

たとえば、日本は和の国だとか、『絆』の存在とか、「~は~なもの」、「~は~である」という、社会の一般的な観念というか信念というか、私はこういうのを「社会の持論」ではないだろうか、と思ったりします。全員がそうだというわけでもないし、どこかの法律に書いてあるわけでもありませんが、大勢の人たちがそうだと思っているし、思ってない(と自分でいう)人でも、『気にしないと言いつつ気にする』、そんなもの。本エントリー、『今日と明日は休みます』という壮大な告知ですが、そこはともかくして、日本と韓国の、そういう社会の観念、信念、または社会的持論についてちょっといつもより長めに書いてみました。実に個人的な考えではありますが。

実は、最近、韓国の若い世代の考え方についていろいろ考察していますが、その中に『一貫した持論が無いのでは』というのがありまして。もしこれといって無いなら、社会単位ではどうなのか、それってアイデンティティーとも関係あるのではないか、とかいろいろ、です。生まれ育った社会の、そういう観念、信(以下略)が、日韓でどうなのかと思ってみたりもします。ジョークのようなものから心にぐっと来るものまで、いろいろあるでしょう。社会の不文律というか、世代を超えた哲学というか、なかなか変わらないもの。決して永遠不変とは言えないけど、短い期間で急に変えられるものでもないし、わざわざ具体的なリアクションを起こして時間と努力を注いで変える理由もない、そんなもの。まさしく受け継がれた精神世界の共有哲学。

 

それが、日本と韓国と異なる点は、日本では「あ、そうそう」「たしかにそういうところあるよねー(ねー)」と思うことが多いですが、韓国の場合、なんというか、理論と実際が合わないというか、そんな側面が目立ちます。一つたとえるなら、韓国では『韓国人は、相手があやまればすぐにもすべてを許す(忘れる)』が定説になっています。擦れば鉄も溶ける、などの言葉もあります。ここで擦るというのは、両手のひらを擦るという意味です。昔は、民間信仰や仏教の寺などで、祈りを捧げながら両手のひらを擦る動作があり、そこから来たものだと言われています。事案にもよるし個人関係にもよる部分はあるでしょうけど、韓国の社会人として生きた経験からして、どうも私はこれが「どこの宇宙の話なのか」よくわかりません。日本の皆さんはさらにそうでしょう。ちょうど中央日報(2月14日)に、同じ話が載っていました。基本的には、尹大統領、そしてアジアサッカー大会でさほど良い成績が取れなかった韓国サッカーチームのクリンスマン監督のことで、「なんであやまらないのか」とする内容です。

 

尹大統領は、主に奥さん関連でした。金建希(キムゴンヒ)大統領夫人関連案件について、尹大統領は2月4日新年対談番組でもこれといった言及がありませんでした。クリンスマン氏の場合、監督職をやめて米国に帰りましたが、一言もあやまらなかったとされ、多くのメディアが記事を出していました。大統領はともかく、サッカー監督が試合でまけたからって、なにか対国民談話でも出さないといけないのでしょうか。まずここから妙ですが、そこはともかくして。記事は「わが国の国民は、相手の誤った行為よりも、あやまらないことにさらに怒る。逆に、道路で思わしくない運転をした人の車でも、ハザードランプをつけてくれるなら(※韓国でもハザードランプはすみませんやありがとうなどの意味があります)、それだけで心はスーッと溶けていく」としながら、こう書いています。

 

<<・・アイムソーリーやスミマッサンを毎日のように口にしながら生きている米国、日本のような国とは違うのだ・・・・このような現実において、政治家たちがあやまるパターンを分類してみると、大きく3つに分けられる。まずは「日本」式。やっとあやまってくれたかとおもうと、すぐひっくり返す・・二つ目は「自動販売機」式。自分に役立つと思われると、後先考えずに何度もとにかくあやまる。未来のことまであやまってくる。未来のことなら、今からやらなければいいだろうが。だから、あとになって「あやまると言ったが、もしかして本当にすると思ったのか?」と言われそうになる。最後は「ドナルド・トランプ」式。最後まで認めず、論点を曇らせる。まれだが、もう一つのパターンがあるにはある。間違ってもいないのに、「私が間違っていた」と言う、ソン・フンミン、イ・ガンイン、キム・ミンジェのような韓国サッカー選手たちだ。そんな彼らがいるからこの世はまだ気持ちよく生きていける。「勝者は間違えたときに『私が間違っていた』というが、敗者は『相手のせいだ』と言う。アメリカのジャーナリストJハービスの言葉だ(中央日報)・・>>

 

イガンイン選手については、ソンフンミン選手との間に大きなトラブルが報じられましたが・・この記事は、まだその前のものです。こういう話、どうもピンとこないというか、なんというか。実際と理屈の溝が深すぎないか、と。日本の場合、その逆です。つい最近、「あ、あるある」と思うことがありました。毎年というほどではありませんが、いつもこの時期には埼玉県の鴻巣市に『ビックリひな祭り』を見に行きます。今年は、鴻巣市の、有名人形店を訪れました。駅から歩いて30分ぐらいのところに、有名な人形店がいくつかあります。ちょうどレナにぴったりの(金属製だし実際に人形の頭に載せる前提の製品ではないので実際に使うかはまだ分かりませんが、サイズ的に)の素敵な冠があったので、さっそく『確保』しました。そして、店の方といろいろ話、展示されている雛人形をいろいろと見て、そして許可を得て写真も撮って、本当に楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございます。

 

で、その店の方から頂いたパンフレットに、雛人形の持つ雰囲気の一つもある、日本の「雅」の心に関する説明として、「些細なものの中にも、ある種の神々しさを求める私たち日本人」(~の心と響き合うという意味で)と書いてあって、たしかにそれはそうだな、と気づきました。こういうのも、さきの「日本というアイデンティティー」の一つとして、十分成立するものではないでしょうか。人形だけではなく、「匠」たる存在に憧れることも、ある意味、人と神の繋がりにあこがれているからかもしれません。このとき、「あ、なるほど」と思いました。つい先まで見ていたものが、まさにそうだったからです。ちょうど似たようなタイミングであった、社会的な一般的観念、信(以下略)・・に関する二つの経験。実際との「あるある」と、別宇宙の「ないない」の話でした。

ということで、今日と明日は更新を休んで、ちょっと遠くに雛人形を見に行ってきます。またサブブログ(コメント欄)のほうに「レナスレ」でも書けたら、と思っています。次の更新は、29日(木曜)の11時ころになります。

 

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