昨日もお伝えした医師ストという不思議な事態、いまのところは解決の兆しが見えていません。政府は離脱した研修医約5500人に医師免許停止など行政的な措置の通知書を送りました。本当は離脱ではなく「辞職した」ですが、政府の立場からすると辞職より離脱のほうがイメージ的に有利だからか、離脱という表現のほうが多い気がします。すると、ソウル大・医科大学の教授たちが集団で辞職を宣言、政府と医師会の力比べは続いています。マネーSによると、他の19の大学の教授たちも同じく辞職を議論しているそうです。数日前、法律的な側面を気にしてか、医師が「医師は文系の検事、判事より『上』だ」とネットに書いていたことが明らかになり、ネットでも大きな騒ぎになったりしましたが・・
最近は、医師が完全に憧れの的になっていて、半導体部門が人材不足になるほど、優秀な人は誰もが「医科大学に行く」道を選んでいる今日この頃です。朝鮮時代の、もっとも確実な出世の道は『科挙』でしたが、これは合格者の数を少なくして、支配階級が一定数を超えないようにしていたという話も聞きます。「武科」はそうでもなかったけど、そもそも文科とくらべると待遇がよかったわけでもないし、科挙に合格できなさそうな権力者の息子たちが武科科挙のほうに入ったので(適当にやっても合格したとかなんとか)、事実上、文科だけでした。部分的とはいえ、定員問題で始まった今回の医師ストを見ていると、オーバーラップする部分もあります。
私が子供だった頃も、似たようなことがありましたが、当時は医師ではなく検事でした。あの頃は、まだ医師は『尊敬』される職業だったと記憶しています。当時は、検事はほんとうに何でもできる職業だと思われていました。本当にそうだったかどうかは分かりません。そんな話をする人たちの中に、検事はいなかったので。詳しくは、公安検察というのがありましたが、これが国内での北朝鮮関連の動きを調べる権限を持っていました。実際に動けるかどうかによる差はあったものの(政権の政策によっては、権限があってもあまり動けない時代もあります)、2020年、文在寅政権によってその権力が削られるまで、検察の「公安」担当はずっと有効で、また、強い力を持っていました。
本ブログでもよく取り上げていましたが、韓国関連のニュースで、『考試院(コシウォン)』という言葉を聞いた方、多いことでしょう。あれがここまで増えた理由も、検事になるための国家試験、「司法試験(別名「司法考試」)のためです。合格すれば検事、それから判事を目指すことのできる、最高の中の最高の『家門が栄える』道でした。この司法試験は、難易度が実に難しく(いまは緩和されていると聞きますが、それでもかなり高難度だと聞きます)、それでも検事になるため、この試験に合格するため、寺に入って数年も十数年も勉強する人たちが少なくありませんでした。そんな人たちのために、考試院が増えたわけです。いまでは住居問題の象徴みたいになりましたが、ある意味、現代史においてもそんな経緯があるわけです。
どれだけ難しかったかというと、司法試験勉強のために考試院に入った青年が、挨拶しに隣の部屋の人を訪れたところ、その人が「司法試験の浪人」だった年数と、自分の年齢が同じだった・・という逸話もあります(出処不明)。それでも大勢の人たちが検事への夢を捨てなかったのは、検事が持つ圧倒的な権力「感」、そして、いまは基準が多少強化されていますが、大学を出なくても、特定の学歴に関係なく誰でも試験を受けることができたからです。
当時は、経済的な問題で、勉強ができても大学に入れるとは言えない時代でした。こういうのが、1970年代の青年たちには、ある種の『公正』に見えたのかもしれません。考試というのは、公務員など、なにかの国家公認資格を得るための試験のことですが、本来は、朝鮮時代の言葉です。官吏を登用するための試験である「科挙」で、成績によって順位を付けることを考試と言いました。科挙も司法試験も国家試験だから、別に司法試験を考試と言っても間違いではありません。存在意味もまた、科挙そっくりだったわけですし。
ちなみに、公式名称は司法試験なのに、いまでも大勢の人たちが「司法考試」と呼んでいます。いつの時代にもこういうのがありました。検事の権限が本格的に弱体化したのは、文在寅政権のときです。その影響で、いまの大統領が生まれました。いつの時代にも科挙があり、いつの時代にもヤンバン(本当にそうなのかどうかはともかく、一般的にそう認識される存在)がいました。疲れます。そういう話です。
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