6月にチェックした記事をいくつか在庫管理(?)していたら、朝鮮日報6月15日の記事、「シカゴ大学の教授、『朱子学が金日成の主体思想になった』」というのが目につきました。そういえばあったあった、と思って改めて読んでみました。シカゴ大学の、北朝鮮に対してかなり親和的なスタンスを示してきた教授が、そのような主張をしたという内容で、朝鮮日報は「正当化する気ならそれは間違いだけど、問題(厳しい階級制度など)においては確かにそのとおりだ」という見方をしています。ご存知、韓国と北朝鮮はどちらが朝鮮半島の公式政府なのか(見方にもよりますが、どちらが朝鮮の後継者なのか)で対立しているので、保守メディアとしては気になったのでしょう。
個人的に、正当化とかそういうのはともかくして(また『正統性』がどうとかの話になる)、よからぬ部分だけ朝鮮そっくりなのは確かにそのとおりかもしれない、と思っています。ただ、北朝鮮だけではありません。韓国社会には、まだまだ『徳治』に関する意識が強く残っており、徳でなにもかも解決できると考えています。ただ、それが、「対等ではなく上下」「現実より『理(リ、ことわり)』」などで現れているから、問題です。どういうことかと言いますと、徳のある人が言うことは正しいから、そのとおりにすればいい、こういうのを「教化」と言い、朝鮮半島の朱子学では徳治の基本とします。
信念に基づいて正しく生きようとした偉人たちから学べるものがありますから、偉人伝を読むレベルの話ならいいでしょうけど・・実際はそうではありません。『正しい人の言うことを聞かないといけない』の名分になります。徳がある人間は『上』だから、その言うことを聞かないのは、すなわち別の意見を出すのは正しくないという展開になってしまいます。端的に、北朝鮮では、言うことを聞かない人たちを収容するところを『教化所』と言います。だから、どうしても対等ではなく上下になるわけです。2019年3月25日中央日報の記事に、すばらしい『訳』が載っています。記事の内容は、アメリカの外交官たちの話を伝えるもので、「韓国の外交官たちは、私たちに(どうするのが正しいのかを)『教えようとする』」というのです。日本はそうではない、とも。この記事の日本語版、「教える」の部分が、「教化しようとする」になっています。教化という言葉、日本ではあまり目にしないので、そういう側面だと評価も変わるでしょうけど、意味的にはピッタリです。同じシチュエーション、日韓関係でもよく現れます。
この考えの背景には、「現実より理」というのがあります。理とは、「この世の当然のルール」すなわちこの世の当為のことです。当然そうであるべきで、先の「徳のある人は『上』である」とする考えも、朝鮮半島の朱子学からすると理の一つです。当然そうだから、説明のしようがない。当然ではないか、これが説明だ、と。面白い表現として、韓国では日本語の「はず」を、「理(リ)」と言います。とうぜんそうなるべきという意味では似ていますし、実際に似たような意味として使う場面もあります。しかし、使い方のニュアンスが異なり、また範囲が広いのが特徴です。たとえば、日本では「道理」「義理」などとはちょっと別のニュアンスで、「はず」は物理的または現実的に合致する(はずの語源は矢筈と弦が『よく合う』から来ているとされています)という意味合いもありますが、韓国の「理(リ)」は、『正しい』という意味合いが確信となっています。
2023年9月23日朝鮮日報の記事で、カナダのマックマスター大学ソンジェユン教授は、「この表現こそ、韓国社会の朱子学の影響を垣間見ることができるものである」と見解を述べています。そんな理はない、「そんなの、当為(当然あるべき)ではない」、と。使い方にもよるし、人それぞれだとは思いますが、この「理」すなわち「~であるべきだ、それが当然だ」とする考えは、現実より理を信じる形として、その牙を剥くことがあります。簡単に言えば、ただの『結論ありき』または『無理のある正当化』になったりします。こういうところが、日本で「理」関連単語(道理など)の使い方と大いに異なる部分だったりします。先の中央日報(2019年、文政権のとき)の記事も、そういうエピソードを紹介していました。
<<・・米国務省のある関係者は、このようにワシントン内の日韓国外交の違いを説明する。「韓国外交官は会えば、すぐに私たちを教えようとしている。「だから、こうしてほしい」と頼んでくる。お願いを聞いてやると、その後しばらく連絡がない。後でまた連絡が来たかと思うと、また何かのお願いだ。日本外交官は、会えば先に「私があなたのために何かできることがありますか」と聞く。助けてくれるというのだ。だから私も「私たち側で何か助けられることはないのか」と聞くことになる。先月、ムンヒサン国会議長と与・野党代表がナンシー・ペロシ下院議長を面談した後、ワシントン外交関係者たちにとって妙な波紋が生じた。
北朝鮮の非核化意志に対する議論があった日の面談について、ムン議長と与党側は「ペロシ議長は、『(北朝鮮の非核化意志が確実であると)皆さんの希望通りになればとても良いですね』と話した。ペロシ議長が(私たちの説得を)十分に理解したと解釈された」と主張したからだ。米議会の関係者は、「その言葉を聞いた瞬間、私たち全員がオーマイガーと叫んだ。皆さん希望通りになればいいという言葉が、まったく言葉が通じないときに話を終える表現なのが分からないのか。確認もせず、そんな大きな曲解をさり気なくできるのか」と言い返した。この関係者は「ペロシ議長も相当な不快さを表出し、今後韓国側との面談の際に参考せよという指示を下した」とも言った。当時、ハプニングは米韓だけでなく第三国外交官の間でもしばらく話題になった(中央日報)・・>>
「そんなはずはない」と言いたくなる場面はいろいろありますが、すべては現実において備えることができてこそのもの。すなわち様々な見方ができた場合のものです。それでも「そんなはずはない」と言いたくなる場面がなくなるわけではありませんが、それと『正しくない』は別でしょう。たとえば、公正なルールのもと行われたスポーツ試合で勝てなかったからって、それが「正しくない」わけではありません。「こんなはずはない」と言いたい場面があるとしても。それを「正しくない」と主張したところで、意味はないでしょう。新紙幣1万円札の渋沢栄一関連エントリー(6月29日)でも似たような話を書きましたが、彼のお陰で朝鮮半島のインフラが近代化され、後の経済発展の大きな土台になった数々の『現実』を、『見ない』というのは、実は『見てはならない』と思っているからでしょう。なぜなら、それは『そんなはず(理)はない』からです。そんな正しくないことが、世にある『はず』がない、と。
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