神が「いない」国?

昨日、唐突にも神についてチマチマ書いてみましたが、その側面からして、日本と真逆の国があります。

朝鮮の儒教は、宗教としての機能を安定的に遂行できませんでした。朝鮮は、人の貴賎に拘り、身分制度を強くしすぎたせいで、道徳や倫理といった社会のルールが貴族だけのものとなり、賎民(下層民)にまで届くことはありませんでした。口では儒教の教えを「人が守るべき倫理や道徳だ」としつつも、下層民を「人間」として見なかったためです。貧しい人たちは、宗教や信仰に頼ることができなくなりました。

 

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そこら中の寺は仏教弾圧で潰れたり、山奥へ逃げたりしました。儒教で大事にする祠堂(先祖の霊を祀るところ)はおろか、儒教の教えによるちゃんとした親の葬式すらも、下層民にはとても実行できるものではありませんでした。下の人たちは、苦しい時に祈りを捧げる場所すら持たなくなってしまったのです。

当時の姿は、イギリスの女性冒険家イザベラ・バードが書いた「朝鮮紀行」によく現れています。日本、中国(清国)、朝鮮を数回も渡って訪れたイザベラ・バードは、その中で朝鮮の人々だけ、宗教や信仰とかけ離れた生活をしていると書いています。『清(中国)や日本ではどんな町からも感じられる、大きな宗教施設による独特の雰囲気が、朝鮮にはない・・ソウルには公認の寺院が一つもない・・寺院がないのは朝鮮の他の都市も同じだ。朝鮮の都市には聖職者もいない。家々には神棚もなく、村の祭りには神輿もない。崇拝の対象にするための像を運ぶ行列も見えず、聖職者が婚礼で祝福することもなければ、葬式で冥福を祈ることもない。形があるにせよ無いにせよ、民から大事にされる宗教儀式も、そのための経典も、生活の中に存在しないのは、朝鮮だけの珍しい特徴だ』。

いまでも韓国は、「宗教」という言葉に大変なコンプレックスを抱いています。それぞれの宗教が、排他的だからです。彼らの愛と慈悲じゃ、「ウリ(同じ教会や寺の信徒たち)」だけのものです。だから、韓国の信仰は、いまでも、本当に閉鎖的です。

神社と街の区別ができない某国の印象とは、本当に真逆です。

 

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