民族とは何か(また急になんのこっちゃ)その1

すみません。書きたいときに書いておこうと思って、また雑記です。しかも、書いていたらパート1になりました。申し訳ないと言うか、恥ずかしいというか、そんなところですが・・でも、書いていてもっとも楽なのが雑記でして・・書き出したら長くなりました。曇りたい部分があっても自分自身に曇ればいいし、歴史問題とか感染症とか書かなくて済みますから。でも、こういいつつ明日からはまたそういう話になりますから(多分)、今回と次、雑記でご容赦ください。

最近、帰化に必要な書類をいろいろ用意しながら、なんというか、とてもドキドキするというか、ソワソワするというか、ただ、決して『嬉しい』だけでは説明できない、妙な不安を感じつつあります。この前、『名前を変えないことにしました』という雑記で、関連した心境を書いたことがありますので、恐縮ですが未読の方はそちらのほうを先にお読みください。今回は、民族についての話です。

思えば、『なんだかんだで遠い血縁関係』とかそんなもの以外に、民族って何だろう?というと、ちゃんとした『絵』が浮かんできません。漠然としたものだから、無視してもいいじゃないかと思うこともできます。でも、私のように『民族』という言葉を当たり前のように聞き(聞かされ)ながら育った人は、そう簡単に思い切ることはできません。

『私たちは民族中興の歴史的使命をもってこの地に生まれた。先祖の輝く精神を今日に蘇らせ、中にて自主独立の姿勢を確立し、外にて人類共営に役立つべき時だ。ここに、私たちの進むべき道を明らかにし、教育の指標とする。誠実な心と丈夫な体で、学問と技術を学び、身につけ、生まれ持ったそれぞれの素質を啓発し、私たちの置かれた立場を躍進の足場とし、創造の力と開拓の精神を育てる。

公益と秩序を前にして能率と実質を崇上し、敬愛と信義をもとにした相互扶助の伝統を受け継ぎ、明るく温かい協力の精神を盛り上げる。私たちの創造と協力をもとに国が​​発展し、国の隆盛が私の発展の根本であることに気づき、自由と権利に伴う責任と義務を果たし、自ら国家建設に参加して奉仕する国民精神を高める。

反共民主精神に徹底した愛国愛族こそが、私たちの人生の道であり、自由世界の理想を実現する基盤だ。長らく子孫に引き継がせる栄光の統一祖国の未来を見据え、信念と誇りを持った勤勉な国民として、民族の知恵を集める努力で、新しい歴史を創造しよう。1968年12月5日大統領パク・ジョンヒ』。

いまでは信じられないことですが、今の40~50代の韓国人は、小学生の頃、これを暗記していないといけませんでした。これが教育の基本であり、これをちゃんと守る子が『いい子』であり、これを守らない子は容赦なく糾弾されました。たとえ小学生でも、何か悪さをすると『お前は、我が国、わが民族がどうなってもいいのか』と言われました。それは、なによりきつい『罰』でした。私は、そういう教育を受けて育ちました。これ、完全に廃止されたのは1994年、金泳三大統領の頃です。

 

日本の神社が好きで、いまでも、ただ神社の境内にぼーっと座っているだけで楽しい私ですが、『参拝』が出来るようになるまでは、戸惑いもありました。他宗教に対して、異常なほど排他的なスタンスを取る韓国の基督教(韓国のプロテスタント)信仰を持っている人は、どれだけ日本が好きになっても、どれだけ神社やお寺に興味があっても、神社やお寺で参拝することだけは、どうしても躊躇います。今では宇迦之御魂神、お稲荷様の神棚をリビングに祀っている私ですが、その躊躇いを克服できるまでは、相応の時間がかかりました。

理由は簡単です。『やってはいけない何か』という認識が、私の中に刻まれていたからです。それは義務とかではなく、道徳に近いものでした。それに、イエスは「他の神を信じるな」とあれほど何度も何度も教えているのに、参拝するのは、あんまりではないか。まるで親不孝をしてしまうような、そんな感覚が残っていました。教会の『人』たちとトラブルが相次ぎ、教会に通わなくなったときから、すでにまたキリスト教に戻ることは無いと分かっていました。でも、別にイエス様が嫌いになったわけではありません。素晴らしい方だと、いまでも思っています。だから、私がイエスを悲しませることだけは、したくありませんでした。別にイエス様が悪いわけでもないのに、イエス様に悪いことをしてしまうという、『道徳的な何か』が、私を縛っていたのです。これを克服するまで、結構時間がかかりました。

 

民族主義教育も、それととても似ています。『自分側の絶対的な無謬さ』を強調する側面があり、『神は一人だけ』に似ているわけです。それに逆らうことは、人の精神の中で、『道徳的に、倫理的に間違っていること』として認識されるようになります。しかも、ものすごく自然な形で。民族主義による躊躇いと宗教(信仰)による躊躇いは、実は同じ感覚であると、私は思っています。

だからこそ、私は怖かったのかもしれません。その民族というもののカテゴリーから完全に外に出ることが。自分の中に、自分の一部として刻まれている何かが否定されることが。帰化という『法的プロセス』で、私の中に刻まれている『民族』という存在がまるっきり『無』になってしまうことが。だからこそ、私は『名前ごと変えようかな』と思ったのかもしれません。そうすることで、それまでの自分、韓国民族という自分を切り離すことができると、もっとひどい書き方をすると『切り捨てる』ことができると、いっそのことそうしたほうがいいと、そう思ったのかもしれません。

ただ、親の住民登録番号関連で、過去エントリーのようなことがあって、父と母の番号を引き出しに入れて、ここだけの話、一晩中、泣いて・・・・そこでやっと目が覚めました。『今まで』韓国人だった。『これから』日本人だ。それでいいじゃないか。なぜそう思えるようになったのか。それは、『民族』とはそう難しいものではない。誰かの家族のことだと気づいたからです。世界は無数の、誰かの家族で出来ています。『自分の家族を忘れそうになったやつが、民族を考察するか。笑わせるな』。そう、答えは簡単でした。ここからは、また夕方に書けたらと思います。

 

・以下、お知らせ・拙著のご紹介などです
エントリーにコメントをされる方、またはコメントを読まれる方は、こちらのコメントページをご利用ください。シンシアリーの拙著は他にもありますが、他の拙著については、別ページにまとめましたので、ぜひ御覧ください。また、以下、拙著の紹介において『本の題の部分』はアマゾン・アソシエイトですので、ご注意ください。

  ・様のおかげで、韓国に蔓延する、新しい、そして歪んだ対日観、『卑日』について考察した新刊が発売中です。卑日>という題です(扶桑社新書、2022年3月2日発売)。最近、韓国で流行っている『地位』『国格』などの言葉と、その裏の意味。K防疫や終戦宣言なども含め、なぜ今韓国に『卑』が必要なのかを考察、率直に書きました。ぜひ、ご一読を。 ・新刊<文在寅政権最後の暴走>が発売中です。文政権においての日韓関係とは。文政権の考える『まともな国』とは。まともな南北、対日、対米、対中関係とは。それらはどういうもので、どう失敗したのか。そんな内容の本です。 ・刊として、自分なりの『日本語』本<日本語の行間~韓国人による日韓比較論 (扶桑社新書)>も発売中です。 ・ブログのプライバシーポリシーはこちらになります。・ンシアリーはツイッターを利用しています。99%更新告知ですが、たまに旅行先の写真とか載せますので、よかったら覗いてみてください。 ・ログ本題とは離れますが、たまに『レナスレ』といってドール写真のエントリーがあります。『レナスレ』と明記しておりますので、興味のある方だけ、見てくだされば幸いです。・れでは、またお会いできますように。読んでくださってありがとうございます。書きたいことが書けて、幸せです。