基準がコロコロ変わるのは集団知性にはなれない

朴槿恵氏の弾劾の時、群衆(群集)心理について書きながら、ニーチェの言葉を紹介したことがあります。

「楽な生き方がしたいなら、群れを成さずにはいられない人たちと混ざって生きるがいい。自分という存在が無くなるまで」。

すなわち「自分の判断力を無くすこと」。考えるのをやめて楽になる。それが韓国の群衆心理の核心でもあります。

韓国では、 collective intelligenceを集団知性と言います。集合的であり、同時に知性のある存在を意味します。鳥の群れ、魚の群れなどからその集団知性を見つけることができます。

韓国では、集団知性といえば、二つの使い方が主流となります。一つは、主にネット上のものを意味します。例えるなら、ウィキペディアがその一つです。

 

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もう一つは、韓国の群衆心理を、集団知性とします。彼らは集団でありながら、同時に知性的だというのです。

しかし、そうなのでしょうか。ただ、自分で考えるのをやめ、いくつかの主観的な基準に極端的な反応を見せることで、「私は良い人だ」という自己満足を得ているだけに見えます。

それらの「いくつかの基準」こそが、韓国で言う「正義」や「良心」などという、いわゆる韓国式の善悪論の正体です。それは法律よりも上にあります。

こうして書いていると、韓国で言う善悪は、韓国で言う正義は、よくできたプロパガンダにすぎない、そう思わずにはいられません。

「プロパガンダ(propganda)は、合理的・論理的な手段を用いない。プロパガンダは、常に感情的で非合理的な反応を誘発させるため、人の本能を刺激する」。Jacques Ellulの言葉です。

 

善悪論に振り回される韓国人たちの姿が決して「集団知性」ではない最大の理由は、彼らの善悪の基準がコロコロと変わるからです。集団的な知性によって、知性が知性を尊重しながら作られた基準に基づく行動なら、そう簡単に基準が変わったりはしません。

 

「韓国人は統一を望んでいない」という話をよく耳にします。実際、そうでしょう。いまは、確かに韓国人は統一、詳しくは北朝鮮というものに対してある種の「抵抗感」を持っています。

でも、思いの外、それは短い期間で無くなるかもしれません。

これから、韓国では統一、連邦制統一(多分盧泰愚大統領が使った「連合」という名で呼ばれるでしょう)が、韓国の「善」として君臨するのでは、と思われます。

反共がどうとか言っていた人たちは、一気に非主流となり、「悪」となるでしょう。集団知性に逆らう愚かな「バグ」として。

 

韓国民の「総意」によって連邦制統一を迎える時は、意外と近い?かもしれません。

5年後か、それとも10年後か・・・左派政権がいつまで続くのか、カギになるかもしれません。

統一の後にも、政権が変わると「不履行宣言」したりするのでしょうか。「また分断で行こう!」とか(笑

 

 

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