実際の行動ではなく、他人の『心情』に責任を負わせようとする人たち

同じ趣旨を何度も書いた記憶がありますが・・10年前・・かな、もっと前かな、2000年代初頭までは、各マスコミにも『社会の問題点』を分析した記事が普通に載っていました。様々な分野の専門家たちによるもので、微妙なものもありましたけど、なかなかユニークで、個人的に『ヒット』したものも結構あります。

それらは、基本的には「なんとかして、改善しよう」な趣旨のものであり、例えば、韓国では人間関係の基本とされる情(ジョン)なども、法律を無視してでも自分の知り合いだけを庇う傾向を見せているため、いわゆる集団利己主義(社会全体を考えず、自分の集団だけを優先する)として社会を傷つけている、だから改善しないといけない、もっと法律を重視しよう、そんな内容のものでした。これらの指摘には、今思っても同意できる内容が多く、いま私がこうしてシンシアリーとして存在するにおいて、大いに世話になりました。

その中の一つ、中央大学校心理学科チェ・サンジン教授(もう故人です)の著書『韓国人の心理学』を見てみると、『心情心理』というものがあるとし、このように指摘しています。「西洋人は、ある人と自分自身の関係においての責任問題を、その人が自分自身に対してどんな行動をしたかで探る。実際に起きた行動が大事で、その人が何を考えていたのか、どんな心情だったのか、そんなことにまで責任を取らせようとはしない。しかし、韓国社会では、実際の行動よりも、その内心、心情を重要視するため、相手が自分自身に何をしたかより、何を考えていたかを重要視する。場合によっては、これは、何の行動もしていない他人に対し、その心情だけで責任を負わせようとする間違いとして現れる。逆に、自分自身が具体的に起こした行動で何かの責任を取らないといけなくなったとき、『そんなつもりではなかった』とし、心情を語って免罪符を得ようとする」。

問題なのは、相手が何をどう考えていたのか、それを知る方法があるのか?という点です。知る方法が無いのにどう決めるのか。それって、結局は何かの上下関係による『決めつけ』で決まるのではないか、と。例えば、この前にも、日本人がよく謝罪するのは、「謝罪する国」だからではなく、「謝罪してもいい国」だからだ、という趣旨をエントリーしたことがあります。謝罪すれば、その分、受け入れられる社会だからです。法的な責任はまた別だとしても、『いや、でも本人も謝っているし』という文化があります。でも、韓国社会では、下手に謝ると、それは『私は盗っ人だから猛々しいことはできません』と自白するようなものです。その時点で、ある種の『決めつけ』スイッチが入ります。謝罪という『行動』が、完全に『心情』の下位の概念になってしまう瞬間です。

心が入っていない、真正性がない、そういう『心情』じゃダメだから、無効だ。どこかで聞いた気がします。そう、日韓関係においてよく出てくる、『真正性』とも一脈相通ずる内容ではないでしょうか。このように、古い寄稿文や書籍などは、いまの日韓関係で見えてくる日韓の認識の乖離と似ている部分もあり、そこがシンシアリーとしての私の成長に、役立ってくれたわけです。

 

しかし、最近は、こんなふうに批判的な話をすると、『我が民族をバカにすることだ』とか『1900年代に日本や親日派が流布した内容(朝鮮の改善すべき点など)と同じだ』と言われてしまいます。民族というのが聖域化されてしまい、ある種の『不敬』の責任を問われるようになった、とでも言いましょうか。2000年代、反共思想(対北朝鮮)が崩れ、国民を結束させるための手段が『国家(反共など)』から『民族(反日など)』に変わり、社会全般で自民族中心思想が強化されてから、この流れが加速しました。いまでも笑うに笑えない事例が、『四寸(従兄弟)が土地を買うとお腹が痛い』という諺の説明です。言うまでもなく、これは、誰かに良いことがあると、不愉快だという意味です。

ですが、2010年頃、ネットで「『四寸が土地を買えばお腹が痛い』は、日本がその意味を変えてしまって、今のような意味になった。本当は、四寸に土地が買えたから、とても嬉しいけど、貧しいから何も祝ってやれるものが無く、せめて肥料になれるものでもやるために、お腹が痛くなることを願うという意味だ」という解釈が流行りました。当時、詳しく何があったかは分かりません。日本のネットかどこかで、韓国の諺がいろいろ紹介され(私も書いたことありますが)、そこでこの諺がバカにされた、それで新しい解釈が流行った、そんな話も聞きますが、真偽の程は分かりません。

ついには、誰かが政府機関の「国立国語院」に、「本来の意味を日帝が変えたと聞きますが、本当ですか」と質問する騒ぎにまで発展します。国立国語院側は、「意味が変えられたという資料は存在しないのでなんとも言えません」と返事しています(2013年)。国語学者のキム・スンヨン氏は2017年9月25日京郷新聞に、「なんでそんなとんでもない解釈をするのか。あれは、人の嫉妬の感情を表した既存の解釈のままの諺で、もともと兄弟、四寸の間の嫉妬を意味する諺や慣用句は他にも多い」と指摘しました。それでも『実は祝うために~』『日本が意味を変えた~』という主張は、消えませんでしたが。というか、日本が変えたというのはどうやって分かったのでしょうか。『心情』というか、『心証』といったところでしょうか。

こんな雰囲気じゃ、ちゃんとした批判や改善を願う分析が載れるはずもなく。最近は、よくてネットメディアやローカルメディアあたりで、たまに見つかるぐらいです。この前に紹介した「4つの顔」をもう一度読んでいたら、ふっとこんなことを思ったので、思ったまま書いてみました。雑記ということで、ご容赦を。 実に迷惑をおかけしますが、本エントリーにコメントをされる方、またはコメントを読まれる方は、こちらのコメントページをご利用ください。次の更新は、朝13時~14時あたりを考えております。

 

 

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